毛徳祖2 洛陽守将    

長安ちょうあん赫連勃勃かくれんぼつぼつによって落とされると、

配下を取りまとめて彭城ほうじょうに帰還。

世子中兵參軍に任じられた。


しかし間もなく

司州ししゅう河東かとう平陽へいよう河北かほく

雍州ようしゅう京兆けいちょう豫州よしゅう潁川えいせん兗州えんしゅう陳留ちんりゅう

合計九郡の軍事を総督することに。

要は洛陽らくよう周辺の軍事責任者である。

あわせて滎陽けいよう太守→京兆けいちょう太守に。


劉裕りゅうゆうが即位したところで、

冠軍将軍に昇格した。

また觀陽かんよう県男に封爵された。

更に統帥権も拡大。

司、雍、へい三州全般と、

豫州:潁川、兗州:陳留の担当とされ、

司州刺史に任じられた。

問答無用の大任である。


そしてここまでに書いたごとく、

孤軍で虎牢ころうを二百日近く守った末、

北魏ほくぎに捕らえられる。

その死亡は 429 年、北魏にて。

65 歳だった。


457 年には毛德祖の甥である毛熙祚もうきそ

その次男である毛詡之もうくしが、

毛徳祖の封爵地を継承した。




長安不守,合部曲還彭城,除世子中兵參軍,將軍如故。又除督司州之河東、平陽、河北、雍州之京兆、豫州之潁川、兗州之陳留九郡軍事、滎陽太守,將軍如故,又加京兆太守。高祖踐阼,進號冠軍。論前後功,封觀陽縣男,食邑四百戶。又除督司、雍、并三州、豫州之潁川、兗州之陳留諸軍事、司州刺史,將軍如故。太祖元嘉六年,死於虜中,時年六十五。世祖大明元年,以德祖弟子熙祚第二息詡之紹德祖封。


長安の守らざるに、部曲を合せ彭城に還じ、世子中兵參軍に除せられ、將軍は故の如し。又た督司州之河東、平陽、河北、雍州之京兆、豫州之潁川、兗州之陳留九郡軍事、滎陽太守に除せられ、將軍は故の如くし、又た京兆太守を加えらる。高祖の踐阼せるに、冠軍に進號す。前後の功を論ぜられ、觀陽縣男、食邑四百戶に封ぜらる。又た督司、雍、并三州、豫州之潁川、兗州之陳留諸軍事、司州刺史に除せられ、將軍は故の如し。太祖の元嘉六年、虜中にて死す、時に年六十五。世祖の大明元年、德祖の弟の子の熙祚の第二息の詡之を以て德祖が封を紹ぜしむ。


(宋書95-22_寵礼)




洛陽守備の責任者みたいなど大任を果たした彼は、明らかに毛脩之よりも重要な将だと思うんですけどねえ……ふしぎ! いやもう宋武二十八将についてこれ以上ツッコミ入れても仕方ないかなーとも思ってますが。


しかし北魏にいた五年間、どんな感じで過ごしたんでしょうね。この頃毛脩之は赫連夏に捕らえられてたから、この親族と会うことも許されていなかったでしょうし。何ともその末期が悲しすぎる。でも戦死じゃなかっただけよかったかな、って。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る