戴顒5  仏像鋳造論   

かんの時代以来徐々に浸透してきた、仏教。

仏像は輸入ばかりだったようだが、

この頃には晋宋しんそうオリジナルでの鋳造も

始まっていた。


ただし、その技術が、拙い。


戴顒たいぎょうの父、戴逵たいきは、自身で仏像鋳造をし、

その技術は当時でもずば抜けていた。

そしてその鋳造には、戴顒も参加。

なので後には技術顧問的な振舞いとなった。


瓦官寺がかんじに仏像が立てられることになる。

ただし仏像とは言え、その姿は宋世子、

つまり劉劭りゅうしょうのもの。

その高さは六丈と言うから、

約14メートル。でかい。


仏像、というより劉劭像が完成!

が、問題が発生した。

顔つきが痩せこけ、貧相だったのだ。

賀、それを手直しできるだけの技術は、

職人たちにはない。

なので戴顒に依頼、解決方法を尋ねた。


戴顒は言う。


「顔つきが問題ではない。

 肩周りが太っているのだ」


そうして肩周りを少し削減してみると、

確かに貧相さは取り除かれた。

うぉお、戴顒様すげえ……!

みんな大感動だったそーである。


そんな戴顒、432 年に死亡した。

64 歳であった。


446 年、建康けんこう城の華林園かりんえん景陽山けいようざん

ようは新規に庭園を造営。

この造営計画に戴顒も関わったのか、

あるいは、何らかの対抗意識か。


劉義隆、こう呟いたそうである。


「口惜しい。

 戴顒にこれを見せてやれんとは」




自漢世始有佛像,形制未工,逵特善其事,顒亦參焉。宋世子鑄丈六銅像於瓦官寺,既成,面恨瘦,工人不能治,乃迎顒看之。顒曰:「非面瘦,乃臂胛肥耳。」既錯減臂胛,瘦患即除,無不歎服焉。十八年,卒,時年六十四。無子。景陽山成,顒已亡矣,上歎曰:「恨不得使戴顒觀之。」


漢の世より始めて佛像有れど、形制は未だ工みならざれば、逵は特に其の事を善くし、顒も亦た參じたり。宋世子の丈六の銅像を瓦官寺に鑄ぜんとし、既に成るに、面は恨瘦にして、工人に治す能わざれば、乃ち顒を迎え之を看せしむ。顒は曰く:「面の瘦せるに非ず、乃ち臂胛の肥えたるのみ」と。既に臂胛を錯減せば、瘦患は即ち除かれ、歎服せざる無かりき。十八年に卒す、時に年六十四。子無し。景陽山の成るに、顒は已に亡かりせば、上は歎じて曰く:「恨めしき、戴顒をして之觀をせしまざるを」と。


(宋書93-5_巧芸)




めっちゃ寵愛されてんじゃねえかこの隠者定期


この当時の仏教はどうしても「御用聞き」組織とならざるを得なかったようだ。「後の皇帝である世子の姿を、崇拝の対象とさせている」わけである。まぁ、政教分離はいちどくっついている段階を経ないといいも悪いも出てこないだろうし、仕方ないとも思うのだが。


そういう段階の中国仏教のあり様を見せてくれている感じがあって興味深いです。ちなみに時を遡ること約四半世紀、しん実権じっけんを握った桓玄かんげんが仏教界に対して「オレに従え!」って言ってきたのを、当時仏教界の代表だった慧遠えおんが「っざけんなバーカ仏教は世俗政権におもねりませーん!」って突き放したのを踏まえると、更にここのネタが美味しく映ってきます。仏教界の取り込みが進んでしまっておる……。


ちなみに「6丈」は仏像の高さとしてのスタンダードなのだそうです。つまりデカけりゃ功徳があるって訳じゃねえんだぞ、おい聞いてんのか後世の土木技術だけ無駄に高くなってきやがった奴ら。いやまぁ当時の技術の限界がこの高さだから箔付けのためにその高さで規定しただけなんだと思うけど☆


あと景陽山についても調べてみたら、その後都合よくこの山に甘露が降り注いだりと瑞祥祭だったそーである。劉宋はね……不思議でね……劉裕りゅうゆうサマの時に瑞祥はそんなになかったんだけど、劉義隆の代に至って爆増えでね……フシギダネ……。

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