江秉之  名長官     

江秉之こうへいし、字は玄叔げんしゅく濟陽さいよう考城こうじょう県の人。

祖父は江逌こうゆう、晉の太常。

父は江纂こうさん、給事中になったが、夭折した。


父を早くに喪った江秉之であったが、

家には七人の幼い兄弟姉妹。

全力で彼ら彼女らを育て、

また縁談を求め東奔西走した。


はじめに就任したのは

劉穆之りゅうぼくし丹陽尹たんよういん兼前軍将軍府。

なにせ劉穆之の妻は濟陽江氏、

つまり江秉之の親族である。

その縁もあったのだろう。


劉裕りゅうゆうが宋王となるとその書記官となり、

さらに劉義符りゅうぎふの幹部に転任する。

劉裕が皇帝となると、前例に従って

員外散騎侍郎となった。

……えっどこで何があったの?

また、太子詹事の補佐官にも。


劉義符が即位すると、

中央で尚書都官郎を勤めた後、

永世えいせい令、烏程うてい令と歴任。

どちらでも善政を布き、

呉興ごこう郡にその名を広く知られた。


その名声より建康けんこう令、

つまり首都付近のエリアの長官に

抜擢を受け、ここでも見事な統治。

建康周辺は肅然とした。


江秉之、自らの受ける祿秩は

すべて親戚知人に放出していた。

そのせいで妻や子は寒い思い、

ひもじい思いすらしたほどである。


それを見かねたか、ある人が

田畑を運営してはどうか?

と提案を持ちかける。


すると江秉之、きっとなって言う。


「畏れ多くも陛下より

 祿を賜っている家の者が、

 どうして農夫らと

 利益を競わねばならんのだ!」と。


440 年に死亡、60 歳だった。




江秉之字玄叔,濟陽考城人也。祖逌,晉太常。父纂,給事中。秉之少孤,弟妹七人,並皆幼稚,撫育姻娶,罄其心力。初為劉穆之丹陽前軍府參軍。高祖督徐州,轉主簿,仍為世子中軍參軍。宋受禪,隨例為員外散騎侍郎,補太子詹事丞。少帝即位,入為尚書都官郎,出為永世、烏程令,以善政著名東土。徵建康令,為治嚴察,京邑肅然。所得祿秩,悉散之親故,妻子常飢寒。人有勸其營田者,秉之正色曰:「食祿之家,豈可與農人競利。」十七年,卒,時年六十。


江秉之は字を玄叔、濟陽の考城の人なり。祖は逌、晉の太常。父は纂、給事中。秉之は少きに孤となり、弟妹七人は並べて皆幼稚なれば、撫育姻娶に、其の心力を罄す。初に劉穆之の丹陽前軍府の參軍と為る。高祖の徐州を督せるに、主簿に轉じ、仍いで世子中軍參軍と為る。宋の受禪せるに、例に隨いて員外散騎侍郎と為り、太子詹事丞を補せらる。少帝の即位せるに、入りて尚書都官郎と為り、出でて永世、烏程令と為り、善政を以て東土に名を著す。建康令に徵ぜられ、嚴察なる治を為さば、京邑は肅然とす。祿秩を得たる所は悉く之を親故に散じ、妻子は常に飢寒す。人に其の營田を勸む者有らば、秉之は色を正して曰く:「食祿の家、豈に農人と利を競わんか!」と。十七年に卒す、時に年六十。


(宋書92-9_政事)



 

名官吏の定型句「得たお給料は全部親戚らに振る舞ったから家族らがひもじい思いをした」って、正直どうなんすかね……まぁ、お家の存続が第一義になるわけだし、構成員の思いは二の次三の次になるのかもしれないけど、なんつーかなぁ。幸せではないよね。


濟陽江氏は地味に重要な家柄なんですが(劉穆之家どころか劉裕家とも姻戚になってる)、どうにもその一門の生態が宋書からだと見えづらいです。この辺どうにかならんかなぁ……。

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