阮長之  孝行息子    

阮長之げんちょうし、字は茂景もけい陳留ちんりゅう尉氏いし県の人だ。

祖父は阮裕げんゆうしん簡文帝かんぶんてい

覚えめでたかった文人である。

父は阮普げんふ、驃騎諮議參軍。

司馬道子しばどうし辺りに仕えた感じだろうか。


阮長之は 15 歳の時に父を喪った。

その時の慟哭がすさまじかったため、

周囲の者もつられて大いに悲しんだ。


葬儀が終わっても、なお菜食を貫く。

そして自宅にとどまっている間、

決して気を緩めることもなく

学問にまい進した。


その後諸府參軍となり、

員外散騎侍郎に任じられる。


このころ母が老いていたため、

襄垣じょうえん県への赴任を求める。

が、郡から派遣されてきた査察役が

全く礼儀のなっていない奴だったため、

「お仕置き」の後、職を去る。


ただ、その振る舞いは高く評価されたようだ。

劉義真りゅうぎしんの幹部として、

平越中郎將における職務の副官、

兼、東莞とうかん太守に任じられた。


一度中央に戻って尚書殿中郎となり、

再び外に出て武昌ぶしょう太守に。


なお武昌は江州こうしゅうの治所であり、

当時の江州刺史は、王弘おうこう

元々お互いに知り合いであり、

重んじ合っていた二人であったから、

その縁から王弘の車騎從事中郎となった。


その後またも中央入りして

太子中舍人、中書侍郎となったのだが、

母親の介護があったため、

宿直のある仕事は辞退。

劉義康りゅうぎこうの相談役に転任となった。


434 年に臨海りんかい太守に任ぜられたが、

間もなくして母親が死亡。

葬儀が終えたのちも

その悲しみはぬぐい切れなかった。

437 年に死亡、59 歳だった。




阮長之字茂景,陳留尉氏人也。祖思曠,金紫光祿大夫。父普,驃騎諮議參軍。長之年十五喪父,有孝性,哀感傍人。服除,蔬食者猶積載。閑居篤學,未嘗有惰容。初為諸府參軍,除員外散騎侍郎。母老,求補襄垣令,督郵無禮,鞭之,去職。尋補廬陵王義真車騎行正參軍,平越長史,東莞太守。入為尚書殿中郎,出為武昌太守。時王弘為江州,雅相知重,引為車騎從事中郎。入為太子中舍人,中書侍郎,以母老固辭朝直,補彭城王義康平北諮議參軍。元嘉十一年,除臨海太守。至郡少時而母亡,葬畢,不勝憂,十四年,卒,時年五十九。


阮長之は字を茂景、陳留の尉氏の人なり。祖は思曠、金紫光祿大夫。父は普、驃騎諮議參軍。長之は年十五にして父を喪じ、孝性有らば、傍人をして哀感せしむ。服の除かるるも、蔬食を猶お積載す。閑居して學に篤く、未だ嘗て惰容を有さず。初に諸府參軍と為り、員外散騎侍郎に除せらる。母の老ゆるに、襄垣令に補さるを求め、督郵の禮無かるに之を鞭じ、職を去る。尋いで廬陵王の義真の車騎行正參軍、平越長史、東莞太守に補せらる。入りて尚書殿中郎と為り、出でて武昌太守と為る。時に王弘の江州為るに、雅より相い知重し、引きて車騎從事中郎と為る。入りて太子中舍人、中書侍郎と為るも、母の老を以て朝直を固辭し、彭城王の義康の平北諮議參軍に補せらる。元嘉十一年に臨海太守に除せらる。郡に至りて時少なきに母は亡じ、葬の畢うるに、憂に勝れず、十四年に卒す、時に年五十九。


(宋書92-8_政事)




ようやく陳留阮氏が出てきた……全然姿を見せないからどうしたのかと。まぁ国政トップオブトップにいなかったってだけで、依然トップ名家ではあったんでしょうけどねー。それにしても阮裕かー。阮籍げんせき阮咸げんかんとは系統が違うんですよね。阮籍系は八王永嘉えいかで滅んじゃったのかなー。

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