徐豁   サポーター   

徐豁じょかつは字を萬同ばんどう東莞とうかん姑幕こばく県の人だ。

父は徐広じょこうの兄、徐邈じょばく。太子左衞率になった。


徐豁は桓玄かんげんが中央に乗り込む直前に

太學博士となった。

で、すぐに桓玄専横期に突入。

国内軍事の全権を握った。


すると、徐豁は提議する。


「敬礼を行うべきは内外の武官のみ。

 太宰や司徒はともに武官ではございません。


 ならば、琅邪ろうや王(司馬徳文しばとくぶん)様が

 敬礼をなすべき理由はございません」


……んぅ?

これは、桓玄が司馬徳文に

敬礼を強要しようとした、ということ?


いずれにせよ、これが桓玄の意図に

背くものであったのだろう。


桓玄は御史中丞にチクり、

徐豁を免官させてしまう。


桓玄が敗北すると、祕書郎、尚書倉部郎に。

いちど何無忌かむきの軍務官となった後、

祠部に移り、永世えいせい令を経て建武司馬に。

該当しそうなのは劉粋りゅうすい毛徳祖もうとくそ向靖しょうせい

ちょっとここは絞りきれない。


それから劉裕りゅうゆうの直属を経て、

尚書左丞となった。


劉裕が皇帝に即位すると、

徐羨之じょせんしの副官となり、

その後再び、尚書左丞を経て山陰さんいん令に。


二回の尚書左丞、三つの県の長官を歴任、

その政務力を磨き上げたため、

ときの名官吏として名を馳せた。


その後も治績を積み重ね、

428 年に持節、督廣交二州諸軍事、寧遠將軍、

平越中郎將、廣州刺史に任ぜられた。

しかし、着任前に死亡。51 歳だった。




徐豁字萬同,東莞姑幕人也,中散大夫廣兄子。父邈,晉太子左衞率。豁晉安帝隆安末,為太學博士。桓玄輔政,為中外都督,豁議:「致敬唯內外武官,太宰、司徒,並非軍職,則琅邪王不應加敬。」玄諷中丞免豁官。玄敗,以為祕書郎,尚書倉部郎,右軍何無忌功曹,仍為鎮南參軍,又祠部,永世令,建武司馬,中軍參軍,尚書左丞。永初初,為徐羨之鎮軍司馬,尚書左丞,山陰令。歷二丞三邑,精練明理,為一世所推。五年,以為持節、督廣交二州諸軍事、寧遠將軍、平越中郎將、廣州刺史。未拜,卒,時年五十一。


徐豁は字を萬同、東莞の姑幕の人にして、中散大夫の廣が兄の子なり。父は邈、晉の太子左衞率。豁は晉の安帝の隆安の末、太學博士と為る。桓玄の輔政し中外を都督せば、豁は議すらく:「敬を致すは唯だ內外の武官にして、太宰は司徒は並べて軍職に非ずして、則ち琅邪王は敬を加うに應ぜず」と。玄は中丞に諷じ豁が官を免ず。玄の敗るるに、以て祕書郎、尚書倉部郎、右軍の何無忌が功曹と為り、仍いで鎮南參軍と為り、又た祠部、永世令、建武司馬、中軍參軍、尚書左丞たる。永初の初、徐羨之の鎮軍司馬、尚書左丞,山陰令と為る。二丞三邑を歷し、明理を精練せば、一世に推さる所と為る。五年、以て持節、督廣交二州諸軍事、寧遠將軍、平越中郎將、廣州刺史と為る。未だ拜さずして卒す、時に年五十一。


(宋書92-7_政事)




なんか色々時期がふんわりしてよくわかりません。まぁ、すごい人ではあったんでしょう。


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