王鎮之3 南の守り
使持節、都督交廣二州諸軍事、
建威將軍、平越中郎將、廣州刺史に。
単純に言おう。
「劉裕が北に向かっている」ときに、
「南の端を任されていた」のだ。
重大極まりない任務である。
実際、劉裕は言っている。
「
見事に取り仕切ることだろう。
これで民の心は安らぐだろう」
王鎮之は赴任しても俸祿を受け取らず、
恬淡とした統治をなし、
貨殖に営むこともなく、
任期を終えて中央に戻るとき、
執務室は就任前と全く変わらなかった。
劉裕が相國となると相談役となり、
更にはその取りまとめ役ともなる。
職務は厳然たるものであったが、
と言って過酷なものではなかった。
宋臺祠部尚書、
宋の儀礼系をつかさどる役職に就くも、
劉裕が皇帝となったあたりで
足の病がひどくなってきたことを表明。
そこで輔國將軍、
その後宣訓衞尉となり、
本州大中正を兼務した。
422 年、在官中に死去。66 才だった。
なお弟の
出為使持節、都督交廣二州諸軍事、建威將軍、平越中郎將、廣州刺史。高祖謂人曰:「王鎮之少著清績,必將繼美吳隱之。嶺南之弊,非此不康也。」在鎮不受俸祿,蕭然無所營,去官之日,不異始至。高祖初建相國府,以為諮議參軍,領錄事。善於吏職,嚴而不殘。遷宋臺祠部尚書。高祖踐阼,鎮之以脚患自陳,出為輔國將軍、琅邪太守,遷宣訓衞尉,領本州大中正。永初三年,卒官,時年六十六。弟弘之,在隱逸傳。
出でて使持節、都督交廣二州諸軍事、建威將軍、平越中郎將、廣州刺史と為る。高祖は人に謂いて曰く:「王鎮之は少しくも清績著しく、必ずや將に吳隱之が美を繼さん。嶺南の弊、此れ不康に非ざりたるなり」と。鎮に在せるに俸祿を受けず、蕭然として營せる所無く、去官の日、始め至れると異ならず。高祖の初に相國府を建つるに、以て諮議參軍と為し、錄事を領せしむ。吏職に善く、嚴にして殘ならず。宋臺祠部尚書に遷る。高祖の踐阼せるに、鎮之は脚患を以て自陳し、出でて輔國將軍、琅邪太守と為り、宣訓衞尉に遷り、本州大中正を領す。永初三年、官にて卒す、時に年六十六。弟の弘之は隱逸傳に在り。
(宋書92-3_識鑒)
鄭鮮之の諫言を拾い上げると、劉裕政権はどうしても「劉裕がいない地の守りに不安が残る」政権であったようです。とは言え、ならばこそその地には信任の重い人物が配されていたはず。この王鎮之などは、まさにそういう人物だったのでしょう。中央のパワーゲームにはさほどかかわっていないけれども(この辺は琅邪王氏の傍流となっていたことも幸いしたのかな)、与えられた職務でそれぞれ大きな治績をあげる。こういう力持ちの黒子みたいな人を見ると、劉裕は「国内をよく保つ」為に人々を厳しく締め上げる方向でいたんだろうなあ、という気がします。とことん実務畑の人だったんでしょうね。劉裕も、王鎮之も。
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