王鎮之2 戦う官僚    

桓玄かんげん劉裕りゅうゆうに打ち破られたのち、

残党のひとり苻宏ふこう苻堅ふけんの息子)は

安成あんせい郡近辺を襲撃。

王鎮之おうちんしは軍を率いて抵抗したが、

数年間の戦いの結果、子弟五人を失う。


このころ母が死んだため職を辞した。

在官中の振る舞いは

清廉潔白そのものであり、その期間で

蓄財らしい蓄財もなさなかった。


妻子の生活維持も困難であったため、

家を引き払い、上虞じょうぐにある

一門代々の墓所に戻る。


葬儀が済むと、息子の王標之おうひょうし

安復あんふく令につけるよう取り計らい、

王標之の赴任に伴い、

官舎に一緒に住まわせてもらった。


喪が明けると、劉道規りゅうどうきよりの招集。

その副官、兼、南平なんへい太守とされた。


そして、徐道覆じょどうふく江陵こうりょう襲撃。

劉道規、王鎮之を建威將軍とし、

檀道濟だんどうさい到彥之とうげんしらを率いさせて

徐道覆を迎撃させようとした。


えっ待って劉道規様!?

私、将軍率いたことなんて

ないんですけど!?


勘弁してくださいとお願いしたが、

却下されたそーである。


そんな王鎮之であったが、

迎撃にはやはり失敗。

そんなわけで解職はされたのだが、

職務には官位なきままで

引き続きついていた。

そして、間もなく復職。


とは言え、迎撃にあたっての

功績もあったようで、

五斗米道ごとべいどうの乱が収まったのちには

華容かよう県の五等男に封爵を受け、

中央より召喚され、廷尉に。


穆帝ぼくていの皇后氏(何充かじゅうの姪)が死ぬと、

その墓所、霊廟を建立する責任者に。


その後、御史中丞に。

官吏の不正をぶっ叩くお仕事だ。

そこでの職務は「正しきを守る」もの。

みな王鎮之のお仕事ぶりに

ビビったそーである。




及玄敗,玄將苻宏寇亂郡境,鎮之拒戰彌年,子弟五人,並臨陣見殺。母憂去職,在官清潔,妻子無以自給,乃棄家致喪還上虞舊墓。葬畢,為子標之求安復令,隨子之官。服闋,為征西道規司馬、南平太守。徐道覆逼江陵,加鎮之建威將軍,統檀道濟、到彥之等討道覆,以不經將帥,固辭,不見聽。既而前軍失利,白衣領職,尋復本官。以討道覆功,封華容縣五等男,徵廷尉。晉穆帝何皇后山陵,領將作大匠。遷御史中丞,秉正不撓,百僚憚之。


玄の敗せるに及び、玄の將の苻宏は郡境を寇亂し、鎮之は拒戰せること彌年、子弟五人は、並べて陣に臨みて殺さるを見る。母の憂にて職を去り、官に在ること清潔にして、妻子に以て自給せる無く、乃ち家を棄て喪を致し上虞の舊墓に還ず。葬の畢うるに、子の標之が為に安復令を求め、子の官に之くに隨う。服の闋ぜるに、征西道規の司馬、南平太守と為る。徐道覆の江陵に逼れるに、鎮之に建威將軍を加え、檀道濟、到彥之らを統べ道覆を討たんとせど、將帥を經ざるを以て固辭せど、聽さるを見ず。既に前軍の利を失いたるに白衣にて職を領し、尋いで本官に復す。道覆を討ちたるの功を以て、華容縣五等男に封ぜられ、廷尉に徵ぜらる。晉の穆帝の何皇后の山陵せるに、將作大匠を領す。御史中丞に遷らば、正を秉りて撓まず、百僚は之を憚る。


(宋書92-2_政事)




苻宏のせいで戦うすべを覚えざるを得なくなって、それによって一門の子五人を失うはめになり。ただ、そこでこの能吏のことですから、ものすごい勢いで「将軍として」成長したんでしょう。それを劉道規に見出された、と。しかも檀道済と到彦之を率いろって、これ相当評価高くないですか?


それにしても、劉裕配下を御史中丞がぶっ叩きまくったって話がいっぱい出るのはちょっときついですね。まぁいろいろ前例のないことも多かっただろうから軋みとかも多かったんでしょうけど、それにしても劉裕の方針として、かなり締め付けが厳しかったのかもしれない。


これによって誰が地獄を見るかって、既得権益層だろうなあ。この辺、劉裕と姻戚を結んでる大貴族層以外はどうやって乗り切ったんだろう。本当に、史書からだと上澄みしか見られなさ過ぎて困ります。

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