巻77 文帝孝武帝期の名将2

沈慶之1 無名の将    

陳慶之ちんけいし、字は子雲しうん義興ぎこう國山こくざん県の人。

武帝蕭衍しょうえんのもとで数々の武勲を上げ、

ついにはわずか数千の兵を率いて

北魏ほくぎが支配する洛陽らくようを……

えっ違う人!? やっだぁー☆



沈慶之しんけいし、字は弘先こうせん吳興ごこう武康ぶこう県の人だ。

若い頃から確かな志を胸にしていた。


孫恩そんおんが乱を起こすと、その軍勢は

武康をも襲撃する。このとき沈慶之は

まだ元服していなかったが、

地元の一族と共に迎撃に出、

そこで大いに武名を馳せた。


しかし、しょせんは

一人の武力に過ぎない。

周辺エリアは結局反乱軍に荒らされ、

人々は離散した。


沈慶之はひとり田畑を耕し、

身を粉にし働いて自活していた。

そんな生活を、三十過ぎまで送る。


一方、かれの兄である沈敞之しんしょうし

劉裕りゅうゆうの叔父、趙倫之ちょうりんしの幹部として

取り立てられていた。

南陽なんよう郡を襲う蛮族の迎撃を任ぜられ、

見事その任務を果たしたため、

そのまま南陽郡守備隊長についた。


その活躍を聞いたためだろうか。

沈慶之、腰を上げ、

はるばる襄陽じょうように出、兄の元を訪問。

そこで趙倫之とも会うことができ、

大いに称賛された[何を?]。


このころ趙倫之の子、趙伯符ちょうはくふ

竟陵きょうりょう太守として任じられていた。

何かを誉められた沈慶之、

趙倫之から、息子の軍の近衛隊に

参入するよう命じられた。


竟陵はしばしば蛮族の襲撃を受ける。

沈慶之、趙伯符のもとで

多くの献策をなし、それにより

毎回蛮族を撃破。

趙伯符に将帥の才あり、と

称賛されるに至る原動力となった。


趙伯符が竟陵郡から離れ、

西陵せいりょうの蛮族を討伐した時、

そこに沈慶之は従軍していなかった。


すると趙伯符、

討伐に失敗したそーである。




沈慶之字弘先,吳興武康人也。兄敞之,為趙倫之征虜參軍、監南陽郡,擊蠻有功,遂即真。慶之少有志力。孫恩之亂也,遣人寇武康,慶之未冠,隨鄉族擊之,由是以勇聞。荒擾之後,鄉邑流散,慶之躬耕壟畝,勤苦自立。年三十,未知名,往襄陽省兄,倫之見而賞之。倫之子伯符時為竟陵太守,倫之命伯符版為寧遠中兵參軍。竟陵蠻屢為寇,慶之為設規略,每擊破之,伯符由此致將帥之稱。伯符去郡,又別討西陵蠻,不與慶之相隨,無功而反。


沈慶之、字は弘先、吳興の武康の人なり。兄は敞之、趙倫之の征虜參軍と為り、南陽郡を監じ、蠻を擊つに功有り、遂に真に即く。慶之は少きに志力を有す。孫恩の亂たるに、人を遣り武康を寇ず。慶之は未だ冠ぜざるに、鄉族に隨いて之を擊たば、是の由にて以て勇聞たる。荒擾の後、鄉邑は流散し、慶之は躬耕壟畝し、勤苦し自立す。年三十にして未だ名を知られず、襄陽に往きて兄に省さば、倫之は見ゆるに之を賞す。倫之の子の伯符の時に竟陵太守為るに、倫之は伯符に命じ版じ寧遠中兵參軍と為す。竟陵の蠻の屢しば寇を為したるに、慶之は規略を設くるを為し、每に之を擊破せば、伯符は此の由にて將帥の稱を致す。伯符の郡を去るに、又た別に西陵の蠻を討たば、慶之は與に相隨わざれば、無功くして反る。


(宋書77-1_暁壮)




おっ「趙伯符スゲースゲー言われてるけどその理由って沈慶之が頑張ってたからだよ」説ですね? いいですね、ワクワクします。ちなみに沈叔任とは同系の模様。

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