王玄謨2 明帝劉彧の刃
そして迎える、
劉彧からは相当に優遇されたようである。
劉彧の即位に反対しての反乱が勃発。
王玄謨、北伐の時に膝に矢を受け、
うまく歩けなくなっていた。
そのため輿に載っての移動が
許可されていた。
やがて車騎將軍、
更に左光祿大夫、開府儀同三司に。
そのうえで護軍をも兼務。
その後
都督権をも得る。
この昇進は、なんだかんだで
その手腕が評価されていた、
と言えるのだろう。
とは言えその指揮方針は苛烈であり、
恩賞を施すことも少なかった。
ただそれ以上に
すさまじく苛烈であったため、
将兵らはこんなことを語っている。
「五年の兵役の中で、どうか
王玄謨に出くわしませんように。
いや、王玄謨はまだマシか。
宗越なら俺らを喜んで殺す」
468 年、81 歳で死んだ。
子の
孫の
明帝即位,禮遇甚優。時四方反叛,以玄謨為大統,領水軍南討,以脚疾,聽乘輿出入。尋除車騎將軍、江州刺史。頃之,為左光祿大夫、開府儀同三司,領護軍。遷南豫州刺史,加都督。玄謨性嚴剋少恩,而將軍宗越御下更苛酷,軍士謂之語曰:「寧作五年徒,不逢王玄謨。玄謨猶自可,宗越更殺我。」年八十一薨,諡曰莊公。子深早卒,深子繢嗣。
明帝の即位せるに、禮遇さること甚だ優る。時に四方にて反叛あらば、玄謨を以て大統を為し、水軍を領し南に討つ。脚の疾を以て輿に乘りての出入りを聽さる。尋いで車騎將軍、江州刺史に除せらる。之の頃、左光祿大夫、開府儀同三司と為り、護軍を領す。南豫州刺史に遷り、都督を加えらる。玄謨が性は嚴剋にして恩少なく、而して將軍の宗越の下を御せるに更に苛酷なれば、軍士は之を謂い語りて曰く:「寧んぞ五年の徒を作さるに、王玄謨に逢わざらんことを。玄謨は猶お自ら可なり、宗越は更に我を殺さん」と。年八十一にして薨ず、諡して曰く莊公と。子の深は早きに卒し、深が子の繢が嗣ぐ。
(宋書76-2_寵礼)
王玄謨は「上奏でえらそーなことを言ってたくせに手ひどい敗北をブチかました将」として知られているそうです。まー敗北の責任取って殺されかけるとか並大抵のことじゃないですよね。ただその後も、なんだかんだで前線には出続けてるんですよね。それを思うと、やはり将軍としては出色だったんではないかしら。まぁそのあたりはアディショナルタイムにもほどがあるのでここでは触れませんが。
しかし殺されかけ過ぎだろこの人。
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