巻76 文帝孝武帝期の名将1
王玄謨1 ぁゃιぃ経歴
かれの自伝にこんな記述がある。
六代上の先祖は
その親族であった
いろいろポカをやって、最終的に
董卓の元部下に殺される事件が起こると、
王宏は官途を捨て、
すると新興、
ところで王允の兄が
王宏なんですよねえええええ?
近い一門で名前が被るとか、
ありえますかねえええええええ?
しかもこんなクソ名家でええええええ?
ともあれ、王玄謨の祖父は
あるいは
そして
父は
王玄謨はみだりに他者とつるまなかった。
そのため、人相見に長けたおじ、
つねづね笑いながら言っていた。
「この子の気高さときたら、どうだ!
まるで
王凌、三国
あえなく敗れた人物だ。
ならば司馬氏に逆らった王凌は
一種の英雄である。なるほど!
王玄謨を側用人として召し抱えた。
その時に会話をして、こいつはやべえ、
と、びっくりしたそうである。
えっちょ、なんでそこで
出会った時期ぼかすんです?
西府に赴任するとき、
その幹部として付き従った。
ただ謝晦が乱を起こし、敗れた時には、
重要な地位になかったということで、
特に罪には問われなかった。
王玄謨字彥德,太原祁人也。六世祖宏,河東太守,綿竹侯,以從叔司徒允之難,棄官北居新興,仍為新興、鴈門太守,其自敍云爾。祖牢,仕慕容氏為上谷太守,隨慕容德,居青州。父秀,早卒。玄謨幼而不羣,世父蕤有知人鑒,常笑曰:「此兒氣概高亮,有太尉彥雲之風。」武帝臨徐州,辟為從事史,與語異之。少帝末,謝晦為荊州,請為南蠻行參軍、武寧太守。晦敗,以非大帥見原。
王玄謨は字を彥德、太原の祁の人なり。六世の祖は宏、河東太守、綿竹侯。從叔の司徒の允の難を以て官を棄て北の新興に居さば、仍ち新興、鴈門太守と為る。其れ自敍に云わるるのみ。祖は牢、慕容氏に仕え上谷太守と為り、慕容德に隨いて青州に居す。父は秀、早きに卒す。玄謨は幼きに羣れず、世父の蕤有りて人鑒を知らば、常に笑いて曰く:「此の兒が氣概は高亮なれば、太尉の彥雲の風有らん」と。武帝の徐州に臨みたるに、辟され從事史と為り、與に語らば之を異とす。少帝の末、謝晦の荊州為るに、請われ南蠻行參軍、武寧太守と為る。晦の敗るるに、大帥に非ざるを以て原さるを見る。
(宋書76-1_為人)
自伝
19世紀の学者、
「王宏?
とのことですよアニキ。
それにしても、なんだここの記述。劉裕と劉義符をそれぞれ武帝、少帝って呼んでるし、なんか劉裕との出会いのシーンの書かれ方があいまいだし。謎極まりないのです……。
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