魯宗之魯軌 西の大物
いやさらっと書かれてますけど
とんでもない大出世ですよね!?
どんなバックグラウンドお持ちなの!?
403 年の
その功績から輔國將軍、
410 年、
このとき魯宗之が
江陵に出向いたのは、
既に劉道規伝で紹介したとおりだ。
この功績から平北將軍となった。
劉裕が
江陵にて合流した。そしてその官位は
鎮北將軍、
要はトップオブトップの一角である。
魯宗之の子、
のちに宋で
戦死する
騎射を巧みとし、筋力絕人。
魯宗之は劉裕と
親しい立場にないにもかかわらず、
しばしば大功を挙げていた。
このままでは、自らの身も危うい。
そう考えたため、
興った時には、司馬休之と結託。
そしてともに北に逃れた。
魯宗之は民衆をよく統治していたため、
この逃走劇を民衆たちはよく助けた。
こうして家族たちを
ことごとく
魯宗之は病を得、死んだ。
魯軌は後秦にて
寧南將軍、荊州刺史、襄陽公として
劉裕が
魯軌は親族の
密書を送る。
内容は宋に帰順したい、というもの。
自らに厳しく罰を加えることで
誠意を示した。
ただ、司馬休之に協力した時に魯軌は
ゆえに帰順はしたが、帰還はしなかった。
その後
北魏の地にありながら、
死亡は 449 年。やはり北魏の地でのことだった。
魯宗之字彥仁,扶風郿人也。晉孝武太元末,自鄉里出襄陽,歷官至南陽太守。義熙元年起義,襲偽雍州刺史桓蔚,進向江陵。以功為輔國將軍、雍州刺史,封霄城縣侯,食邑千五百戶。桓謙、荀林逼江陵,宗之率眾馳赴,事在臨川烈武王道規傳。進號平北將軍。高祖討劉毅,與宗之同會江陵,進號鎮北將軍,封南陽郡公,食邑二千五百戶。子軌一名象齒,爽之父也。便弓馬,筋力絕人,為竟陵太守。宗之自以非高祖舊隸,屢建大功,有自疑之心。會司馬休之見討,猜懼,遂與休之北奔。善於撫御,士民皆為盡力,衞送出境,盡室入羌,頃之病卒。高祖定長安,軌為寧南將軍、荊州刺史、襄陽公,鎮長社。世祖鎮襄陽,軌遣親人程整奉書,規欲歸順,自拔致誠,以昔殺劉康祖、徐湛之父,故不歸。太祖累遣招納,許以為司州刺史。元嘉二十六年,軌死。
魯宗之は字を彥仁、扶風の郿の人なり。晉の孝武の太元の末、鄉里より襄陽に出で、官を歷し南陽太守に至る。義熙元年に義を起て、偽雍州刺史の桓蔚を襲い、進みて江陵に向かう。功を以て輔國將軍、雍州刺史と為り、霄城縣侯、食邑千五百戶に封ぜらる。桓謙、荀林の江陵に逼りたるに、宗之の眾を率い馳せ赴きたるの事は臨川烈武王の道規傳に在り。平北將軍に號を進む。高祖の劉毅を討てるに、宗之と江陵にて同會し、鎮北將軍に號を進め、南陽郡公、食邑二千五百戶に封ぜらる。子の軌、一名に象齒は爽の父なり。弓馬を便りとし、筋力絕人、竟陵太守と為る。宗之は自ら高祖の舊隸に非ざるを以て屢しば大功を建つらば、自ら疑いたるの心有り。司馬休之の討たるを見たるに會し、猜い懼れ、遂に休之と北に奔る。撫御に善く、士民は皆な為に盡力し、衞送し境を出で、室の盡きの羌に入れるに、之の頃に病卒す。高祖の長安を定むるに、軌は寧南將軍、荊州刺史、襄陽公と為り、長社に鎮ず。世祖の襄陽に鎮ぜるに、軌は親人の程整を遣わせ書を奉ぜしめ、歸順を規欲し、自ら誠を致せるを拔せど、昔に殺劉康祖、徐湛之が父を殺したるを以て、故に歸さず。太祖は累しば遣わせ招納せしめ、許し以て司州刺史と為す。元嘉二十六年,軌は死す。
(宋書74-3_仇隟)
ではここで、桓玄討伐による劉裕一派の封爵についてみてみましょう。
劉裕 豫章郡公10000戶
劉毅 南平郡公 5000戶
魯宗之 霄城県侯 1500戶
はい、「クーデターのもともとに参与してない」のにもかかわらず、かなりの好待遇が与えられています。シカトしていい人じゃないでしょとは今までも思ったんですけど、こうしてまともに伝を読んでみると、なんつーか。
晋書良吏伝に同郷同姓の魯芝って人がいて、その人の伝によれば、彼の一門は扶風、つまり長安近辺に住まう豪族であると書かれています。なら、太いバックボーンも持ってはいたんでしょう。ただそれでもやっぱり、トンデモネー人なんだろうな、って思いは新たとなりました。
だからさぁ、宋書さんは偉大なる宋帝国の度量を示したいなら、こういう人もっと大きく扱おうよ……そしたら俺氏大喜びなので……
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