顔延之6 がんしゃ    

顔延之がんえんしの性格は、一言で言えば、激烈。

酔いに任せて言いたい放題する。

ほんとうにあけすけなので、

却って相手は顔延之の主張が

よくわからなかったという。


ただ、その生活態度は

極めてつつましやかだった。

蓄財に走ることもなく、粗末な衣食。

ひとり郊外で手酌を楽しみ、

その振る舞いは、まさに傍若無人。



劉劭りゅうしょう劉義隆りゅうぎりゅうを殺すと、

顔延之を光祿大夫とした。

だからと言って

劉劭シンパであったわけではなく、

劉駿りゅうしゅんが劉劭を打ち倒した後には、

金紫光祿大夫とされた。

更にはのちの明帝、劉彧りゅういくの教育役にも。

要はそれだけ、顔延之の文が

権威に直結していたわけだ。


劉駿が即位して二年後の 456 年に死亡。

73 才だった。散騎常侍、特進が追贈され、

憲子と諡された。



顔延之と謝靈運しゃれいうんはその文才をもって

当時の文壇で名を極めていた。

西晋の潘岳はんがく陸機りくき以降、

かれらに追いつけた者はいない、というのが

総論であったが、ここにきて、この二人が

ついに彼らと並んだとされた。


ゆえに人々は二人をがんしゃと呼んだ。

がんしゃと。

がんしゃ。




延之性既褊激,兼有酒過,肆意直言,曾無遏隱,故論者多不知云。居身清約,不營財利,布衣蔬食,獨酌郊野,當其為適,傍若無人。元凶弒立,以為光祿大夫。世祖登阼,以為金紫光祿大夫,領湘東王師。孝建三年,卒,時年七十三。追贈散騎常侍、特進,金紫光祿大夫如故。諡曰憲子。延之與陳郡謝靈運俱以詞彩齊名,自潘岳、陸機之後,文士莫及也,江左稱顏、謝焉。所著並傳於世。


延之が性は既に褊激にして、兼ねて酒過有り、直言せること意が肆まとし、曾て遏隱せる無く、故に論者は多きが云いたるを知らず。身は清約に居し、財利を營まず、布衣蔬食にして、獨り郊野にて酌し、當に其の適したる為は傍らに人無きが若し。元凶の弒立せるに、以て光祿大夫を為す。世祖の登阼せるに、以て金紫光祿大夫と為し、湘東王師を領す。孝建三年に卒す、時に年七十三。散騎常侍、特進を追贈せられ、金紫光祿大夫は故の如し。諡して憲子と曰う。延之と陳郡の謝靈運は俱に詞彩を以て名を齊しくし、潘岳、陸機よりの後、文士に及びたる莫きたるも、江左は顏、謝を稱う。著したる所は並べて世に傳う。


(宋書72-6_賞誉)




詩品では謝霊運のナチュラルに美しい表現に対し、顔延之の文章は難解で人工的な表現なので、軍配は謝霊運に上がる、とされたそうである。いやいや顔延之さんなんかどう考えても公的文書を要求された生涯なわけで、そこをもって「人工的」って言われちゃうのどうなんすかね? 対する謝霊運なんてアンチ政権そのものだったわけじゃないですか。ていうか顔延之の竹林七賢的しぐさって結局劉湛りゅうたん殷景仁いんけいじんクソでしかなくて、皇帝そのものにどうこうってわけでは(あんまり)なかったんでしょう。


つーかその辺の属性を陶淵明とうえんめいがかっさらってんのが楽しいですね。この時代で一番現代に名を知られてんのは陶淵明ですが、見事に「政権の中枢にかかわった人」として語られないのが楽しいです。いや実際かかわってないので当たり前ですが。ただ、今回紹介した顔延之が、陶淵明の弔問文を書いていたりはします。顔延之の立ち位置もこれでなんとなく把握できたし、その弔問文と接したらなんか面白い発見ができるのかも。できないかも。どうなんだろ。まあいっか! がんしゃ(あいさつ)!

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