顔延之2 劉裕と学問
416 年に
政府は劉裕に宋公の授与をなすため
使者を遣わせ、
かれらにその就任を祝わせようとした。
そしてその側につけて
日々の出来事を記録させようとした。
役目を負ったのが
同僚の王氏。名前は不明。
いや書いてやれよ。
顔延之は詩を三作詠んだ。
その文章の美しさは
つまり当時の文壇トップに絶賛された。
宋国が建つと、
さらには
サポートすることになった。
劉裕が皇帝となると、太子舍人となった。
要は引き続き劉義符の教育顧問である。
その儒についての知見が
素晴らしいとの話があった。
そこで劉裕はかれを
かれのための屋敷に住まうよう命じた。
やがて劉裕自らがその館に訪問。
そこには多くの俊英も集められていた。
この時顔延之は地位が低かったため
本来であれば末席だったのだが、
その才覚を認められ、
特別に上座に引き立てられた。
劉裕は顔延之に命じる。
周續之と三義の内容について議論せよ、と。
周續之の理論、そしてその展開は
非常にすぐれたもの。
だが顔延之はそのすべてを
端的に論破していく。
その後劉裕は顔延之に
今回の議論についての解説をさせた。
相変わらずシンプルな言葉で、
端的に理屈を解き明かす。
それを聞いたもので
称賛せずにおれないものはいなかった。
のちに尚書儀曹郎、太子中舍人に移った。
劉義符の教育に絡むのは
相変わらずだったようである。
……絡んでたんだよなぁ……。
義熙十二年,高祖北伐,有宋公之授,府遣一使慶殊命,參起居,延之與同府王參軍俱奉使至洛陽,道中作詩二首,文辭藻麗,為謝晦、傅亮所賞。宋國建,奉常鄭鮮之舉為博士,仍遷世子舍人。高祖受命,補太子舍人。雁門人周續之隱居廬山,儒學著稱,永初中,徵詣京師,開館以居之。高祖親幸,朝彥畢至,延之官列猶卑,引升上席。上使問續之三義,續之雅仗辭辯,延之每折以簡要。既連挫續之,上又使還自敷釋,言約理暢,莫不稱善。徙尚書儀曹郎,太子中舍人。
義熙十二年、高祖の北伐せるに、宋公の授有らば、府は一なる使を遣わせ殊命を慶がしめんとし、起居に參じ、延之と同府の王參軍は俱に使を奉じ洛陽に至り、道中にて詩二首を作り、文辭の藻麗なるを、謝晦、傅亮に賞さる所と為る。宋國の建つるに、奉常の鄭鮮之に舉げられ博士と為り、仍いで世子舍人に遷る。高祖の命を受くるに、太子舍人に補せらる。雁門人の周續之の廬山に隱居せるに、儒學の稱うらる著しかれば、永初中、徵ぜられ京師に詣で、館を開き以て之に居す。高祖は親しく幸いし、朝彥の至に畢うるに、延之が官列な猶お卑しかれど、引きて上席に升る。上は續之に三義を問わしめ、續之は雅より辭辯に仗し、延之は每に簡要を以て折す。既に連ねて續之を挫かば、上は又た自ら敷釋に還ぜしまば、言は約にして理は暢、稱善せざる莫し。尚書儀曹郎、太子中舍人に徙る。
(宋書72-2_文学)
劉裕の動きを見ると、近親者を高位につけつつ、身分の低い人物を引き立てようとも動いた形跡が伺われます。顧命の臣にしたって、謝晦以外は寒門だものね。感覚としては、一人は名属入れとかないとヤバい、という感じだったのかなあ。なんとなく謝晦包囲網的なふいんきも感じないではない。
それにしても顔延之と鄭鮮之のつながりも面白い。鄭鮮之といえば劉裕との清談ごっこで、周りがビクビク劉裕の顔色におもねる中ひとりズバズバ劉裕の言葉を切り捨てまくった人。そういうひとに引き立てられてるわけですから、顔延之自身もなかなか直剛な人物なのでしょう。すでにやや隠者寄りのメンタリティでいることは感じられますしね。
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