鄭鮮之10 鮮之卒す   

421 年、いちど宮殿を出て丹陽尹たんよういんに。

とはいえ間もなく宮殿に戻り、

都官尚書、散騎常侍に。


北伐従軍の功績から、

龍陽りゅうよう縣五等子に封爵された。

更に、劉裕りゅうゆう死後だろうか、

豫章よしょう太守、秩中二千石となった。

ちなみに豫章とは、桓玄かんげん打倒の功で

劉裕に与えられた封爵地でもある。

なかなかに粋な偶然だ。


426 年、徐羨之じょせんしらが排除され、

王弘おうこうが改めて宰相として君臨。

ここで王弘、鄭鮮之ていせんしを推挙。

尚書右僕射とした。


427 年に死亡。64 歳だった。

散騎常侍、金紫光祿大夫が追贈された。

その著述は文集として伝えられている。


子は鄭愔ていいん。尚書郎、始興しこう太守に至った。




永初二年,出爲丹陽尹,復入爲都官尚書,加散騎常侍。以從征功,封龍陽縣五等子。出爲豫章太守,秩中二千石。元嘉三年,王弘入爲相,舉鮮之爲尚書右僕射。四年,卒,時年六十四。追贈散騎常侍、金紫光祿大夫。文集傳於世。子愔,位至尚書郎,始興太守。


永初二年、出でて丹陽尹と爲り、復た入りて都官尚書と爲り、散騎常侍を加う。征に從いたるの功を以て、龍陽縣五等子に封ぜらる。出でて豫章太守、秩中二千石と爲る。元嘉三年、王弘の入りて相爲るに、鮮之を舉げ尚書右僕射と爲す。四年に卒す、時に年六十四なり。散騎常侍、金紫光祿大夫を追贈せらる。文集は世に傳わる。子は愔、位は尚書郎、始興太守に至る。


(宋書64-10_衰亡)




ここまでの劉裕の関係を見ると、途中でも触れましたが、豫章太守就任がエモい。イヤ、劉裕がどんだけ豫章に足運んだかって聞かれりゃ、正直怪しいですけど。


なんだかんだで王弘からも信任を受けていたり、このオジサマ、なかなかにいぶし銀の存在感ですねー。「文の劉鐘」くらいの印象にもなりました。ごちそうさまでした。

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