王曇首6 王氏の処世   

兄の王弘おうこうが、皇帝周りの文書発行の

取締を行っていた。

かつ、揚州ようしゅう刺史の地位も得ていた。

更には王曇首おうどんしゅが侍中として

劉義隆りゅうぎりゅうのそばに侍り、

皇太子、劉劭りゅうしょうの世話までしている。


一応劉義隆の弟、劉義康りゅうぎこうは王弘とともに

公文書発行の責任者となっている。

だがこの兄弟に、実質の権勢は

握られているようなものだ。

なのでせめて、揚州刺史の地位くらいは

手にしたいとのこぼしていた。


一応その望みは叶うのだが、

実質は王曇首と権限を分け合うような形。

やはり劉義康としては面白くない。


やがて王曇首が呉郡ごぐん内史に転任したい、

と言い出す。それに対して劉義隆は言う。


「巨大な家屋が、

 大黒柱なしに保ち得ようか?


 今、そなたの兄上が病により、

 揚州を退かれた。彼の代任が、

 そなた以外の誰に務まるのだ。


 そこまでして呉郡に

 赴かねばならぬ理由とはなんだ?」


このとき王弘の病はひどくなっており、

揚州刺史以外の役職からも退きたいと

願っていたが、叶わない状況だった。

それだけ当時は、この兄弟の手腕に

依存していたのだ。


劉義康はその様子を見聞きしていたので、

訪問してきた賓客に言っている。


「知っているか? 王弘殿の病は、

 御身を起こせずにおるほど。

 揚州とは、そのように弱った方でも

 治められる程度の土地なのかな?」


やがて王曇首、兄に言う。

自らが抱える兵力の半分を

劉義康に譲るべきだ、と。


王弘がこの勧めに応じると、

劉義康は大いに喜んだ。




時兄弘錄尚書事,又為揚州刺史,曇首為上所親委,任兼兩宮。彭城王義康與弘並錄,意常怏怏,又欲得揚州,形於辭旨。以曇首居中,分其權任,愈不悅。曇首固乞吳郡,太祖曰:「豈有欲建大厦而遺其棟梁者哉。賢兄比屢稱疾,固辭州任,將來若相申許者,此處非卿而誰?亦何吳郡之有。」時弘久疾,屢遜位,不許。義康謂賓客曰:「王公久疾不起,神州詎合臥治。」曇首勸弘減府兵力之半以配義康,義康乃悅。


時に兄の弘の尚書事を錄さんとせるに、又た揚州刺史と為り、曇首は上に親しく委ねられたる所と為らば、兩宮を任兼す。彭城王の義康は弘と並びて錄せど、意は常に怏怏とし、又た揚州を得たらんと欲し、辭旨にて形す。曇首の居中せるを以て、其の權任を分かたらば、愈いよ悅ばず。曇首は固く吳郡を乞う。太祖は曰く:「豈に大厦を建て其の棟梁を遺さんと欲せる者有らんか? 賢兄は比れ屢しば疾を稱し、州任を固辭す。將に若し相い申許せる者來たらんとせば、此を處せるは卿に非ずして誰ぞ? 亦た何ぞ吳郡に之れ有らんか?」時に弘は久しく疾し、屢しば位を遜かんとせど、許されず。義康は賓客に謂いて曰く:「王公は久しく疾し起たざらば、神州は詎んぞ臥治に合さんか?」と。曇首は弘に勸め府を減じ兵力の半ばを以て義康に配さば、義康は乃ち悅ぶ。


(宋書63-13_寵礼)




権勢が大きくなりすぎて、劉義康、つまり「皇帝のちょっと外」からはとても危うく見えていたのでしょう。このへんは彼らの力を借りて身を全うできた(皇帝にもなれた)劉義隆と劉義康とでは、どうしても視界が違ってきてしまう。せめて徐羨之じょせんしら誅滅の動きで、もう少し劉義康の働きが大きかったら違ったのかもしれませんけど。


一方の琅邪ろうや王氏も、ほっとけば徐羨之らと同じルートを歩むリスクも孕んでいます。最終的に家門の力で劉氏排除は叶うでしょうけど、家門が受けるダメージも決して小さくはない。となれば、その権勢を少しでも劉氏に譲渡しておいたほうがリスクが下がる。そんな感じでしょうか。


おそらく琅邪王氏、桓玄かんげんを倒した直後の太原たいげん王氏没落にも大きく噛んでるでしょうしね。いつ我が身になるとも限らない。そしてもちろん、皇帝家そのものになるなんてのはリスク管理としても最悪のもの。そんな背景が伺えてワクワクするのです。

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