王華6  素朴の人    

栄誉ある職に任ぜられる場合、

形式でも一度か二度は辞退をするのが、

この時代の通例であった。


しかし、約二名。

王華おうか劉湛りゅうたん、この二人だけは

辞令を受けたら即引き受けた。

二人にとっては、それが普通だったのだ。


ただ、ここまで見てもわかるとおり、

王華は虚飾を嫌う男である。単純に、

雑事を省きたかっただけかもしれない。


宴会にはほぼ出ない。

出ても酒は全く飲まない。

仮に飲んでいたとしたら、

やっぱり参加しない。


もし時宜に適う論をぶつものがいたら、

使者をつかわせたりもしない。

いきなり自分で出向き、

その出入りを狙って、会う。


王弘おうこうが宰相となると、その弟王曇首おうどんしゅも、

また劉義隆りゅうぎりゅうのそばで重任に当っていた。

その権限は、王華にほぼ等しいもの。


この環境で、自らの力を

どれだけ振るえるのだろう。

王華は嘆息している。


「宰相が併存しているようなものだ。

 リーダーなくして、どうして治安が

 おさまろうものかよ!」


徐羨之じょせんしら誅滅の翌年、427 年。

王華も死亡した。43 歳。

散騎常侍、衞將軍を追贈された。


431 年、劉義隆は徐羨之討伐の功績から、

王華を新建しんけん県侯に追封、宣侯と諡した。

また劉駿りゅうしゅんが即位すると、劉義隆の霊廟に

王華も合わせて配食された。




宋世惟華與南陽劉湛不為飾讓,得官即拜,以此為常。華以情事異人,未嘗預宴集,終身不飲酒,有燕不之詣。若宜有論事者,乘車造門,主人出車就之。及王弘輔政,而弟曇首為太祖所任,與華相埒,華嘗謂己力用不盡,每歎息曰:「宰相頓有數人,天下何由得治!」四年,卒,時年四十三。追贈散騎常侍、衞將軍。九年,上思誅羨之之功,追封新建縣侯,食邑千戶,諡曰宣侯。世祖即位,配饗太祖廟庭。


宋世にては惟だ華と南陽の劉湛は飾讓を為さず、官を得たらば即ち拜し、此を以て常と為す。華の情事の以て人に異なること、未だ嘗て宴集に預からず、終身酒を飲まず、燕有らば之に詣でず。若し宜しき事を論ぜる者有らば、車に乘りて門に造り、主人の車に出でるに之に就く。王弘の輔政せるに及び、弟の曇首は太祖に任ぜらる所と為り、華と與に相い埒し、華は嘗て己が力を用い盡くさざると謂い、每に歎息して曰く:「宰相の數人頓有せるに、天下は何ぞの由にて治を得たらんか!」と。四年に卒す、時に年四十三。散騎常侍、衞將軍を追贈せらる。九年、上は誅羨之を思したるの功を思い、新建縣侯、食邑千戶に追封し、諡して宣侯と曰う。世祖の即位せるに、太祖が廟庭に配饗す。


(宋書63-6_為人)




あー、これはあれですわ、この人わりと蔡廓さんタイプっぽいですね。剛直の塊。今回読むまでなんとなく胡散臭かったんだけど、これひたすら実務猛進タイプくさいですわ。


で、少なくとも王弘とは相性悪そう。つまり劉義隆、が主導権握って以降、琅邪王氏どもが第二の徐羨之、下手すりゃそれ以上になる恐れがあったから、家の中で割れるよう仕向けたっぽい。待って待って、劉義隆さんこのときまだ二十一とかそのへんだよね……? マジ司馬元顕しばげんけんと同じ時代に生まれてほしい。すっげえドロドロしそう。


いわゆる文帝五臣の関係性は全員を見通さないとなかなかうまく結論は出せそうにないから、とりあえず保留。ただ、劉義隆さんのヤバみを感じるものが見れそうです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る