劉義季  アル中末子   

文王 劉義季りゅうぎき



劉義季。見るからに無能だったようで、

阿諛追従の徒はまるでかれに

近寄ろうとしなかったと言う。


劉義隆りゅうぎりゅうが西府に赴任する際、

劉裕りゅうゆうは劉義季を西府に連れて行かせた。

なので劉義隆に深く愛された。

劉義隆が即位すると衡陽こうよう王に。


劉義季、とにかく酒好き。

特に劉義康りゅうぎこうが廃された後から、

夜通し酒をかっくらい、

まともに意識を保つのは

僅かな間だけだった。


そのため劉義隆からしばしば怒られる。

その場ではしおらしく謝るのだが、

またすぐ飲み始め、

結局死ぬまで変わらなかった。


その後彭城ほうじょうに移され、

そして 447 年、危篤に陥る。

劉義隆は徐湛之じょたんし、つまりいとこを遣り、

建康けんこうに連れ帰ろうとした。

が、出発前に死亡。33 歳だった。




衡陽文王義季,幼而夷簡,無鄙近之累。太祖為荊州,高祖使隨往江陵,由是特為太祖所愛。元嘉元年,封衡陽王,食邑五千戶。義季素嗜酒,自彭城王義康廢後,遂為長夜之飲,略少醒日。太祖累加詰責,義季引愆陳謝。義季終不改,以至於終。二十四年,義季病篤,上遣中書令徐湛之省疾,召還京師。未及發,薨於彭城,時年三十三。


衡陽文王の義季は幼くして夷簡にして、鄙近の累無し。太祖の荊州為るに、高祖は隨いて江陵に往かしめ、是が由にて特に太祖に愛さる所と為る。元嘉元年、衡陽王、食邑五千戶に封ぜらる。義季は素より酒を嗜み、彭城王の義康の廢されたる後より、遂に長夜にて飲を為し、略ぼ醒めたる日は少しきなり。太祖の累ね詰責を加うるに、義季は愆を引き陳謝す。義季は終に以て終に至りたるまで改まらず。二十四年、義季が病は篤く、上は中書令の徐湛之を遣りて疾を省み、召して京師に還ぜしむ。未だ發せるに及ばずして彭城にて薨ず、時に年三十三なり。


(宋書61-12_任誕)




このアル中末子、今まで笑って見てたんですが、今読み直したらハッとしました。これ、下手したら兄弟の中で一番賢かったかもだわ。


と言うのも、成長ルートがまんま劉義慶りゅうぎけい。あの場合は頼れる弟でしたが、ここでは頼れる上の息子に委ねてます。となると劉裕、なんとなく劉義隆に「末っ子が生を全うできるように」的な指示をしたのかもです。


そして、その末っ子はまるで竹林七賢の阮籍げんせき、あるいは劉伶りゅうれいのような最期を迎えた。おそらく、そう振る舞うことが最もマシだ、と思ったのでしょう。切ないね……。

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