劉義宣1 西府の守り   

劉義宣りゅうぎせん



劉裕りゅうゆうの第六男、劉義宣。

かれは生まれながらにして舌が短く、

うまくろれつが回らないため、

あまりしゃべろうとはしなかった。


424 年に竟陵きょうりょう王に封ぜられ、

左將軍として石頭城せきとうじょう守護の任についた。

その後荊州けいしゅうに出向、つまり西府の長に。


ところで西府と言えば要衝も要衝、

建康けんこうの上流に位置し、土地にも恵まれ、

兵士たちの訓練も行き届いている。

なので劉裕、この地には息子を充て、

万全に守らせるよう遺言していた。


劉義隆りゅうぎりゅうがこの地から建康入りした後、

一度は謝晦しゃかいに守らせこそしたものの、

謝晦討伐ののちには劉義康りゅうぎこうに守らせた。

劉義康が宰相として中央入りすると、

今度は劉義恭りゅうぎきょうに守らせる。


そのあとはいとこの劉義慶りゅうぎけいに。

かれ自身が宗族の有望株である上、

劉宋の建国にあたり

大いに武功を挙げた、

劉道規りゅうどうきの爵位を継いでいる。

それゆえの抜擢であった。


そして、その次にようやく劉義宣。

ただし無能の人であったようで、

配置した劉義隆も、内心では

あまり長いこと任せるわけには

いかないだろう、と懸念していた。


とは言え、その後なんだかんだで

十年近く在任するのだが。




南郡王義宣,生而舌短,澀於言論。元嘉元年,年十二,封竟陵王,食邑五千戶。仍拜左將軍,鎮石頭。初,高祖以荊州上流形勝,地廣兵強,遺詔諸子次第居之。謝晦平後,以授彭城王義康。義康入相,次江夏王義恭。又以臨川王義慶宗室令望,且臨川武烈王有大功於社稷,義慶又居之。其後應在義宣。上以義宣人才素短,不堪居上流。


南郡王の義宣は生まるるに舌短かく、言論にて澀なり。元嘉元年、年十二にして竟陵王、食邑五千戶に封ぜらる。仍ち左將軍を拜し、石頭に鎮ず。初、高祖は荊州の上流の形勝にして,地廣く兵強かるを以て、諸子を次第に之に居すべく遺詔す。謝晦を平ぐる後、以て彭城王の義康に授く。義康の相に入るに、江夏王の義恭が次す。又た臨川王の義慶は宗室の令望にして、且つ臨川武烈王の社稷に大功有りたるを以て、義慶は又た之に居す。其の後に應に義宣が在す。上は義宣の人才の素より短なれば、上流に居せるに堪えざると以ゆ。


(宋書68-3_政事)




劉義宣は非常に無能の人であったそうですが、一方でそう言う人は「反乱のための神輿」として担ぎやすかったようです。その辺りの話があまりにも面白かったため、次話は例によってアディショナルタイムに突入。


しかし劉義隆も、劉義宣以降西府軍をまとめさせるための親族に恵まれなかったって感じなのが悲惨ですね。

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