劉義恭2 最後の息子の最期

424 年、劉義真りゅうぎしんの代わりに歴陽れきよう入りした。

監南豫豫司雍秦并六州諸軍事、

冠軍將軍、南豫州刺史となる。

なお当時 12 歳。

へー超早熟の天才なんですねー

(思考放棄)


劉義隆りゅうぎりゅうが即位すると江夏こうか王に封ぜられた。

使持節、撫軍將軍、鼓吹一部。

まぁ、めっちゃすごい。


更に 426 年には徐州刺史、

監南徐兗二州揚州之晉陵諸軍事に。

大雑把に言えば歴陽から京口けいこうに移った。

間もなく軍統御の権限が監から都督に。

ただ、少しの間は

歴陽にいたままだったようだ。


劉義隆が謝晦しゃかい討伐の軍を

立ち上げたところで、はじめて京口に。



劉義隆、劉劭りゅうしょう劉駿りゅうしゅんと、

宋皇室の歴史は、政変の歴史でもある。

だが劉義恭、荒波を見事に乗り越える。


そんな彼の前に立ちはだかったのが、

前廃帝、劉子業りゅうしぎょう。劉駿の子だ。

超弩級のクソであったため、劉義恭は、

柳元景りゅうげんけいという人物とともに、

なんとか彼を廃位せねば、と計画。


が、465 年。先手を取られた。

劉子業は近衛兵を動員、劉義恭の家で

劉義恭、及び四人の子を殺させた。

53 歳だった。


劉子業、よほど怒っていたのだろう。

劉義恭の死体をバラバラにし、腸を裂き、

眼球をくり抜いて蜜に漬け込み、

それを「鬼目粽」と呼んだ。

死人の目のちまき、という意味だ。




景平二年,監南豫豫司雍秦并六州諸軍事、冠軍將軍、南豫州刺史,代廬陵王義真鎮歷陽,時年十二。元嘉元年,封江夏王,食邑五千戶。加使持節,進號撫軍將軍,給鼓吹一部。三年,監南徐兗二州揚州之晉陵諸軍事、徐州刺史,持節、將軍如故。進監為都督,未之任。太祖征謝晦,義恭還鎮京口。前廢帝狂悖無道,義恭、元景等謀欲廢立。永光元年八月,廢帝率羽林兵於第害之,并其四子,時年五十三。斷析義恭支體,分裂腸胃,挑取眼精,以蜜漬之,以為鬼目粽。


景平二年、監南豫豫司雍秦并六州諸軍事、冠軍將軍、南豫州刺史として廬陵王の義真に代りて歷陽に鎮ず、時に年十二。元嘉元年、江夏王、食邑五千戶に封ぜらる。使持節を加えられ、撫軍將軍に進號し、鼓吹一部を給せらる。三年、監南徐兗二州揚州之晉陵諸軍事、徐州刺史となり、持節、將軍は故の如し。監より進みて都督と為るも、未だ任に之かず。太祖の謝晦を征せるに、義恭は還じ京口に鎮ず。前廢帝は狂悖無道にして、義恭、元景らは謀りて廢立せんと欲す。永光元年八月、廢帝は羽林兵を率い第にて之を其の四子と并せて害す、時に年五十三。義恭が支體は斷析され、腸胃は分け裂かれ、眼精を挑取し、蜜を以て之を漬け、以て鬼目粽と為す。


(宋書61-11_衰亡)




劉裕りゅうゆうの子らは末っ子の劉義季りゅうぎきがアル中死したのを除けば、全員が非業の死を遂げています。いや劉義季も大概だけど。たぶん「最も劉裕に愛された人」ってのも生き延びるにあたって重要な変数だったんでしょうけど、さすがに劉子業には通用しなかったようです。


なお劉子業、廃帝と名がつくとおり、在位一年半弱で叔父の劉彧りゅういく(のちの明帝)に暗殺されています。その後の劉彧が自分の息子の対抗馬を殺し尽くしたのをみてると、劉子業の無道である程度の「掃除」を図ったのかもしれないですね。例えば大きな発言力を持つ宗室、とかね。フフ……。



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