第29話 『死を拒絶する』

「……大丈夫か。怪我は?」


 油断なく周りを警戒しながら、ラルフが横目でティアンを見て話す。


「な、なんでラルフが、こんな所にいるんだよ……っ!」


 さっきまで死にかけたのをラルフに助けられたにも関わらず、ティアンは何で自分がこんなにも苛立っているのか理解できなかった。


「えっ、そ、その手……」


 そしてふとティアンの目に入ってきたラルフの手。

 さっき獣を殴りつけたラルフの左手は、手の甲が完全に擦り剥いて血が滴れていた。


「……やはりか」


 ティアンに指摘にラルフも自分の手の状態に気がつく。

 さっき殴ったとき、まるで硬い石を殴ったような感触を受けた。

 そしてあの獣の形状……それは明らかに狼のような普通の、動物のそれではなかった。


「来るか」


 ラルフは周辺を見渡す。さっき倒れたそれは茂みの中に逃げたのか、いつの間にかその姿を消していた。

 だが完全にこの場から去ったのではなく、目前に広がる暗闇の中にはさっきと同じように計六つの緑色の瞳がこっちを凝視していた。

 そしてラルフから漂う血の匂いに我慢ならなくなったか、それらは大胆にも茂みから出てラルフ達の前に姿を現した。

 その姿を、雲から出てきた月が淡い光で照らしてくる。


「……やはり魔犬まけんだったか」


 狼を遥かに超える体躯、岩のように硬い表皮、そして特徴的な長い牙――それは帝国が使役する魔物の中でも一番数多く見られる類のものだった。

 リヒテ王国を侵攻する際に帝国が連れてきたそれらは、長い戦争の中で多くが野良と化して、今ではリヒテ全域で見られる魔物となっていた。


「それが、こんな所まで流れてくるとは……」


 軽く顔をしかめてラルフはそう呟く。そしてその呟きを皮切りに、魔犬達がラルフに襲い掛かる。

 正面から飛び込んでくる一匹を半身の体勢で向かえ、その横っ腹を蹴り飛ばす。そして斜めから迫るもう一匹をラルフは避けもせず、また正面からその眉間を殴りつけた。


「……くッ」


 その拳と魔犬の額が激突して血花が咲く。

 ……それはラルフの血飛沫だった。その一撃をもらった魔犬は地べたを転んだが当然死んでなどいない。

 その反面、ラルフが支払った代償は大きかった。


「ら、ラルフ……手がッ!?」


 ティアンの慌てた声。

 傷づいたところに再度無理を強いた結果、左手の骨が完全に砕かれた。ラルフの左手はもはや握り拳ではなく、力なくたらんと垂らされたまま血を流していた。

 そしてラルフが手の痛みに耐えるわずかな隙を逃さず、三匹目の魔犬が襲って来る。


「ラルフッ!?」


 死角から飛んできたそれは、そのままラルフの左肩に噛み付く。

 傷を負った手では即座に対応できず、ラルフは飛び込んできた魔犬に押されて地面に倒れた。


「うっ……くッッッ!?」


 肩に走る激痛にラルフがもがく。

 左肩に深く食い込んだ牙を一度見て、ラルフは魔犬の腹の下に足を入れて思いっきり蹴飛ばした。


「……く……ッッ」


 吹き飛ぶ魔犬。だがそれと同時に、食い込んだ牙から肩の肉片も一緒に噛み千切られ辺りに飛び散る。

 一瞬ラルフの左肩から噴水のように血が噴き出してきた。

 それでもラルフはゆっくりと体を起こし、警戒しながら距離を詰めてくる魔犬達を睨みつける。


「な、なんで……なんで避けないんだよ、ラルフ……」


 訳が分からなくて、ティアンは歯を食いしばって搾り出すようにそう呟いた。

 確かに魔犬達の俊敏さは普通ではない……が、この前ラルフが戦場荒らしの賊を斬り捨てた時の動きを間近で見たティアンには、ラルフなら十分避けられる範囲の攻撃だと思えた。


「ま、まさか……俺の、せい……?」


 そしてふいに至った考え――ラルフはさっきから一歩も動いてはいない。ただその場で襲って来る魔犬を迎え撃っている。

 ……そしてラルフの後ろにいるのは他でもなく、自分だった。


「そんな……ッ。そんな――っ!!」


 悔しくて涙が零れる。またも自分が足を引っ張り、ラルフは負わなくてもいい怪我を負ってしまった。

 いや、怪我云々ではなく、あの傷は命に関わる――それほどまでにラルフの負っている傷は深刻だった。

 ティアンは顔を上げ、体の半分を自分の血で濡らしているラルフの背中を見上げた。


「……次に襲ってきたらすぐ村まで走れ、いいな」


 後ろのティアンが動く気配を感じ取ってか、横目もくれずラルフが静かにそう告げる。

 だがその左腕は相変わらず力なく揺れていた。むしろ、まだ千切れることなく体にくっ付いていることが不思議な状態ともいえた。


「で、でも……! そんな体でどうするんだよ!! そのままじゃ本当に死んじゃうよ!」


 哀願にも近いティアンの叫びが森に木霊する。

 それに対し、ラルフは甚く短い答えを返した。


「俺は、死なん」

「えっ……な、何を言って……」


 一瞬、その言葉の意味が分からなくなってティアンが聞き返す。


「俺は死なない……決して」


 それが何を意味する言葉なのか、ティアンには理解できなかった。

 ただ暗闇の中でも、あんな酷い怪我を負っていても、ラルフの目だけは正面の敵を捉えぎらついていた。


「来るぞ、走れっ!」


 ラルフからの合図にティアンは自分でも驚くほど簡単に身を起こして走り出した。

 そして村の方向……ではなく、半分茂みに埋もれたラルフの剣がある場所へと走った。

 背筋が凍る恐怖、もしすぐ後ろに自分に気づいた魔犬がいるんじゃないか――そんな焦りと不安を押し殺して、ティアンは最後は転がるようにしてラルフの剣を手に取った。


「ラルフ、これをッ!!」


 振り返って、片手だけで悪戦苦闘しているラルフに向け剣を投げる。

 ほぼ魔犬の下敷きになって、迫り来る牙をその首を押さえて避けていたラルフの手元に剣が転がり届く。


「――――ッ!!」


 迫る魔犬の口を首を捻って避け、ラルフは右手に剣を掴む。

 そして剣を魔犬の腹深く刺し込んで、そのまま横っ腹まで斬り裂いた。


 ――クゥオカッカッカッカ!!


 耳障りで奇怪な断末魔と共に赤黒い血を噴き出して倒れる魔犬。

 すかさず襲って来るもう一匹の魔犬を、ラルフは身を翻しながら首ごと切り落とした。

 そして仲間が倒れて興奮し突撃してくる最後の魔犬に、ラルフもまた正面から向かい打つ構えで走り出した。


「ラルフ――ッッ!」


 ティアンの叫びと同時にラルフの剣筋が半月を描く。

 その直後、最後の魔犬は頭の天辺から尻までを真っ二つにされた。


 ほんのわずかな間、空から飛び散る血の雨を見惚れたように見つめていたティアンは、急にふらついて片膝を折るラルフの姿に慌てて彼の元へ走り出した。


「ラルフ、大丈夫か!? ……おい、ラルフっ!」


 だがティアンの呼びかけにもラルフは返事を返さない。

 剣を支えに何とか踏み止まっているが、それがなければ今にも倒れそうなほど彼は弱っていた。


「やっぱり傷が……ど、どすれば……ッ!?」

「ティアン――!」


 慌てるティアンの後ろからレナの声が聞こえてくる。

 振り返ると、息を切らして荒い呼吸をしているレナの姿がこっちに近づいてくるのが見えた。

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