第18話 『狩り』
「しっ……止まれ。静かに」
鬱蒼と雑草の生えた茂みを分けて先頭を進んでいたスベンが急に立ち止まる。
そして手を上げて、後ろから来るラルフとティアンに停止の合図を送ってきた。
「何だよ、おやじ……それより、そろそろ帰ろうぜ?」
もうすっかり猟に興味をなくしたティアンが眠たげな目でそう言ってくる。
だがスベンは正面から目を逸らさず、ある一点を凝視していた。
「うん……? 何かあるのか……って」
面倒くさそうにしてスベンの視線の先を見つめるティアン。
……そこには、普通の何倍もする大きさの猪が設置されたくくり罠に挟まってもがいていた。
「で、でけぇ……っ!」
背丈だけでも大人の男に匹敵する、その尋常ではない大きさにティアンが大きく口を開けて驚く。
それを横目で見てスベンが釘を刺してきた。
「あまり大きい声を出すなよ。あちらさんは、まだこっちに気づいてないからな」
「えぇぇ……何びびってんだよ。もう罠に掛かってるのにさ」
半笑いでそう言ってくるティアンとは別に、スベンは甚く真剣な顔で話した。
「バカ野郎……ッ! 山の獣を舐めるな。ワシらを発見して興奮したヤツが、罠を千切って突っ込んでくるかも知れんのだぞ……!?」
その言葉で、さっきまで森を回りながら見かけた壊れた罠のことを思い出したのか、やっとティアンの顔が緊張で固まり始める。
「……今から手順を話すから、ちゃんと聞いておけ」
そう前置きして、スベンがラルフの方を見て話した。
「まずラルフ、お前は持ってる棒の中で一番長いやつにこれを括りつけろ」
そう言ってスベンは腰のポケットから柄のない短剣を一つ取り出して、縄と紐を一緒にラルフに渡してきた。
「……そうだ。そうやって強く締め付けて固定するんだ」
言われた通りラルフが刃を取り付けるさまを見て、スベンは頷きながら話を続ける。
「いいか? まずワシが弓で一発入れる。もし倒れなかったら、あのデカ物が倒れるまでだ」
そしてスベンは、ラルフが手にしている刃を付けた棒を指差して言った。
「そんで獲物が倒れたら、お前ぇが持ってるそれで出来るだけ遠くからトドメを刺せ。わかったか?」
「ああ、了解した」
軽く頷いて答えるラルフに、スベンがもう一度念を押してくる。
「動けない状態だからって油断するなよ。もし暴れだしたら木に登るなり何でもして、逃げる準備をしておけ」
そう言い残して、スベンは茂の中から獲物の死角になる方向へと移動する。
一方、その大猪は罠に片足を取られ、だいぶ衰弱しているように見えた。時折足を引っ張り、食い込む枷にもがくそれにスベンが矢を射る。
「な、な、それ、俺にやらせてくれよ……!」
隣で手を伸ばしてくるティアンを無視して、スベンが矢を放つ。そしてそれは吸い込まれるように大猪のこめかみに突き刺さった。
――グォォォォォッッ!?
森の中を木霊する鳴き声を上げて大猪が横に倒れる。それを間近で見て、ティアンが感嘆の声を漏らした。
「す、すげぇぇっ!? 一発で倒したぞ……ベンのおやじも中々やるじゃん!」
そう言って茂みから飛び出して、倒れた猪に近づくティアン。それを見てスベンが大声を上げる。
「バカ野郎!? ワシがさっき言ったことを忘れたのか! 早く離れろっ!」
「なんだよ、もう倒れたんだから別にいいじゃん…………?」
へらへら笑いながらそう話すティアンが正面を向くと、倒れた猪は毛細血管が破裂して血走った目でティアンの姿を捉えていた。
そしてそれは奇声のような鳴き声と共に、荒い鼻息を吐き出して体ごと飛び出すように立ち上がってきた。
「う、うわあぁっ!?」
その勢いに驚いてティアンがその場で尻餅をつく。
幸い大猪の足に嵌っていた枷は未だ健在で、ティアンが倒れた場所の手前でその突進も止まる。
だがその衝撃で、地面と木に固定されていた枷が半分くらい抜き取られた。
「何をしてる! そこから逃げろ!!」
「あ、えっ、その……!?」
スベンが怒鳴り声を上げる。でも足から力が抜けたティアンは地面を這うようにして何歩か後ずさるだけだった。
そして大猪が怒り狂ったような奇声と共に、またティアンに突撃してくる。
「うぅ……っッ!?」
咄嗟に目を瞑るティアン。それを横から飛び出てきた人影が、ティアンを抱えて猪の突撃をかわした。
「……えっ、ら、ラルフ?」
ティアンが目を開けると、自分を抱えたラルフの姿が目の前に映っていた。
そして次の瞬間、鈍重な何かが木にぶつかる音と一緒に、その木から何十羽の鳥が飛び立って羽ばたく音が聞こえてきた。
「……離れていろ」
ティアンを地面に降ろして前に出るラルフ。
一方、突撃した勢いで近くの木に頭から突っ込んだその大猪が、鼻息を荒くしてラルフの方に振り返る。
「…………」
ラルフがゆっくりと腰に手を伸ばす――その刹那、飛んできた矢が猪の右目を貫通した。
――クォォォォッッ!?
苦しみ、奇声を上げて暴れ出す大猪。
そこに続けさまに第二、第三の矢が飛んできて猪の頭と首筋に突き刺さる。ふらつく猪……それは、たたらを踏みながら地面にうつ伏せで倒れ込だ。
「今だ! トドメを刺せ!」
スベンの声に、ラルフは腰の剣に伸ばしかけた手を戻した。そしてさっき地面に放り投げた刃を括りつけた木の棒を拾い、その大猪の首筋深くに突き入れる。
それはしばらく痙攣を繰り返して、やがてその動きを完全に止めた。
「…………ふぅぅぅ。何とかなったな」
念の為しばらく矢を射る体勢のまま見ていたたスベンが、やがて大きく息を吐き出して茂みから出てくる。
彼は再度その大猪が死んだのを確認した後、ティアンの前に立った。
「あ、あの……その」
口ごもるティアンは、まともにスベンと顔を合わせないまま下を向く。そこにスベンが静かな口調で言ってきた。
「最初にワシが何て言ったか覚えてるか? ……勝手に動き回るなと、言ったはずだ」
「そ、それ……は」
身に覚えのある言葉に、まともに返事を返せないティアン。そこにスベンの怒鳴り声が炸裂した。
「この大馬鹿もんが! ラルフがいなかったら、お前ぇはあれに跳ねられて死んでたんだぞ!?」
「うぅ……こ、ごめん……」
やっとの思いで謝罪の言葉を口にするティアンに、スベンは鼻息を出して背を向けた。
「ハッ! だからガキなんか連れてきたくなかったんだ……」
そう吐き捨てるように言って、スベンは皮袋から大きめの布を何枚か取り出して倒れた大猪に被せる。そしてその布の端を釘を打って固定した。
「それは……何をしているんだ?」
落ち込んでいるティアンを一度見て、ラルフは作業するスベンに近寄ってそう尋ねた。
「……まだ回るところが残ってるからな。こんなデカイのを持って歩くのはできないし、だからって今解体してたらそれなりに時間を食う。それにだ……いくら袋に入れても、血の臭いがぷんぷんするものを持って森ん中を歩くのは得策じゃない」
そう言っているうちに、作業を終えたスベンが立ち上がる。
「だからこいつの解体と回収は他を全部回ってから最後にする。その間、他の動物に食い荒らされないように布を被せるんだ。……まあ、あくまで一時凌ぎにすぎんがな」
そしてスベンが項垂れているティアンを見て声を上げた。
「いつまでうじうじしてる! さっさと移動するぞ!」
それから幾つか他に罠を設置した場所を巡る。その中には兎のような小動物だけではなく、結構大きめの鹿が罠に掛かっていた場所もあったが、スベンはそれら全ての罠を外して動物を解放させた。
「何でわざわざ捕らえたものを放すんだ?」
ラルフがそう聞くと、スベンが苦笑を浮かべて答える。
「さっきデカイ獲物を取ったからな。…………ワシらは、そんな多くのものを必要としてない。多く取ればそれを保管するのが大変だし、かえって腐らせでもしたら目も当てられないだろ」
そう言ったスベンは繋ぎ目が欠けた枷を見て、これは修理しなきゃな――って呟きながらそれを袋に入れて立ち上がる。
「ワシらはな、必要な分だけ自然から取れればそれでいい。……他の奴らがどう思ってるかは知らんが、少なくともワシはそう思ってる」
そしてスベンは来た道を振り返って歩き出した。
「それじゃ、そろそろあのデカイのをばらして持って帰るか」
その後、大猪があった場所に戻ったラルフ達はそれを解体して皮を剥ぎ、肉を切り分けて袋に詰め込んだ。
それだけで持ってきた袋は全てぱんぱんに膨らみ、背負った時ずしりとした重さを感じさせた。
それからやっと森を抜けて村に戻ってきた時にはもう日が暮れ初め、辺りは赤色に染まっていた。
「その……ら、ラルフ」
取ってきたものをスベンの家に持ち込み、後片付けを手伝って帰路についた頃、未だ落ち込み項垂れていたティアンがラルフに話しかけてきた。
「……なんだ?」
「あ、その…………ごめん、迷惑かけて」
相変わらず口ごもりながらそう謝ってくるティアンに、ラルフはいつものぶっきらぼうな顔で答えを返す。
「過ぎたことだ、気にするな」
「で、でも……っ!」
顔を上げて感情をむき出しにし反論するティアンに、ラルフは少し考えてその小さな頭に手を置く。
「反省するところがあったなら、それを次に生かせば良い」
……昔の知人から聞いた言葉をそのまま受け売りしている自分に、ラルフは思わず苦笑を浮かべた。そしてティアンから背を向け歩き出した。
「そろそろ夕食の時間だ、早く帰るぞ」
「あ……うん!」
少しは元気を取り戻した声でそう答え、ティアンが小走りでラルフの横に並ぶ。
その夕暮れを歩く二人の影が長く長く延びていた。
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