第3話

 知らない何処か、暗い場所。

 其処にレオは立っていた。何かを必死に叫ぼうとして口が動かず、空気がからからと回るだけ。

 触ってみるとどうやら、口がなくなっていて、肌を擦るだけだった。


「…………! ………………!!」


 何かを伝えようとしたのに、声は出ない。

 動かない。癒着しているのだから、当然だ。

 声の代わりに涙が出るばかりで、想いは伝わってくれやしない。

 叫んで、叫んで、叫んで――――


 そして、目が覚める。どうやら暖炉の前で眠ってしまっていたらしく、寒い部屋の中でぼぅっと辺りを見回した。

 時計を見てみるともう朝のようで、もうすぐまた壁の中へと行かなければいけない。

 それは苦ではないから良いものの、鎧を着込むのが面倒だ。


 固まった身体をほぐすために伸びをして、大きな溜め息を一つ。何故か、ハウの姿が思い浮かんだ。

 透明な息を吐く。時間が時間だ、レオは立ち上がって、鎧の方へと歩いた。


     *


 扉の閉まる音。円形の世界の中で、レオは檻へと近付いた。ハウは今日も変わらず、檻の中で蹲っている。

 ハウは格好を変えない。レオが想像できない年月を、ずっと動かずに過ごしている。一晩同じ格好で寝ただけのレオとは比べ物にもならない程体は固まっているのか、或いは人とは違い痛くならないのか、少し気になった。


 犬を四匹倒してから、檻を背にして座る。

 冷たい壁の中、静寂が満ちている。息を吐けば白い何かが揺蕩って、何処かに消えていった。


「寒いな」


 沈黙の中、じっと大気を見る。眼を凝らせば、消えていった何かが見えそうな気がしたからだ。もちろんそんなことはなく、仄暗い空の下で雪が降っているのが見えるだけだ。


「えぇ、寒い」


 女性にしては少し低い、ハウの声が聞こえる。それからレオは、言葉を伝える。


「薪を切らした」

「……へぇ」

「明日か明後日にはロールが来るから、大丈夫だけどな」

「……商人さん?」


 ハウはレオが人名を出せば、それが誰かを確認してくる。一日の中で最初だけで、それから何度か出すともう聞くことはないのだが、次の日になるとまた聞いてくる。

 理由は知らない。だがレオは何だかその会話が気に入っていて、その度にあぁ、と返事をする。


「憂鬱だ」

「……狼?」

「あぁ。嫌われているからなぁ」


 商人はいつも、一匹の狼を連れてくる。耳が小さくて獰猛な黒い狼。レオはその狼に嫌われていて、またレオも狼が嫌いだった。

 だからあまり近付きたくはないのだが、彼らは何故かレオのことを気に入っていて、レオの部屋に空いた部屋が幾つもあるものだから、いつもレオの家に泊まるのだ。

 正直、迷惑だ。だが、迷惑とも言えない。レオは昔からそんなふうに生きてきた。


「……ねぇ、私も狼よ」


 商人の話になると、その言葉を聞く。聞かないことはない。


「お前は犬だろ」


 ハウにとってもこの返事は、聞かないことはないものだろう。

 そう言い終えたとき、雪の玉が集まる。魔物が生まれる兆候だ。

 気分を害したわけではないだろう。何度も何度も話したことだし、何より寒さが元のままだ。ただの偶然。溜め息と共に白い何かを吐き出して立ち上がる。

 跳びかかってきた一匹の口に剣を突き刺す。犬は好きだがこれは魔物だ。心が破れることもなく殺す。透明な血が飛び散った。


「……わん」


 檻を背にして座ると、そんなことが聞こえてきた。消え入りそうな平坦な声で、感情もなく。

 それは初めてのことで、少し驚きながらも、鼻で笑う。


「似合わねー」

「……ふふっ」


 彼女が笑って、レオもしっかりと笑う。

 少しその笑顔を見てみたい気もするが、振り返らない。もしかしたら無表情のまま笑っているのかもしれないな、なんて考えてみることもある。


「臆病」

「そりゃな」

「でも、泊めるんでしょう」

「……まぁ、な」


 だから、憂鬱だ。

 はっきりと嫌だと言う勇気があればいいのに。そうできたらきっと、レオは自分を認められるだろう。

 そんな勇気、レオにはない。もしそれをして、指を差されてしまえば。その指がレオの首を絞めて、大きな音を鳴らせば。死ぬのは、恐ろしい。異端であることが糾弾される原因であると、少なくともレオは知っているが、何が切っ掛けになるかは分かっていない。ただただ、恐ろしいから彼らを泊めるのだ。それが自然だから。それだけの憶病さで。そう考えてしまう自分が、酷く恨めしかった。


「安くしてもらえるから、な」

「……そうね」


 だが、ハウにはそう告げる。馬鹿みたいな見栄だ。何もできない愚かさを知られたくない。だがそれが愚かさを肥大化させて、苦しくて、彼女の相槌にバレていないかと不安になる。


「……なぁ、ハウ」

「……何?」

「……いや、何でもない」

「…………そう」


 恐ろしくて、話題を変えようとする。だが、何も思い付かずに止めて、沈黙が生まれた。薄暗い空から雪が降る様を見つめる。沈黙は苦ではない。だが、少しの寒さは苦しかった。ゆっくりと時間が進む。何度か魔物が生まれて、それを殺した。それからこの世界が溶けるまで、ハウの口からもレオの口からも声が出ることはなく、白い何かだけが消えていった。


 立ち上がる。扉の開く音がすると歩き出すのも、彼女と話していることがバレることを恐れてのことだ。それが、苦しくて。魔物を殺したあと、いつもならたった一言しか交わさない別れに、一つ付け足す。


「ハウ」

「……何?」

「……また」

「……さようなら」


 二枚目の扉が開いて、いよいよ世界は溶けきった。小さな世界の中に、狼に怯える男が一人入り込む。世界が閉じる音。照明が少なく薄暗い壁の中は、冷たい。

 明日は休みだ。レオがこの仕事を仕事と感じていなくても、それでもこれは仕事で、休みは必ず訪れる。

 休みは、嫌いだ。閉ざされた世界の方がよかった。


 街の中に、狼に怯える男が一人入り込む。レオが家の中に戻るまで、話しかけてくる人物はいなかった。

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