飛び込んだ少女

逢雲千生

飛び込んだ少女


 僕がその村を訪れたのは、中学三年の夏休みだった。


 今となっては、それが七月だったのか八月だったのか、何日頃だったのかまでは思い出せないけれど、暑い日が続いていたということだけは覚えている。


 腰を悪くしたという祖母を見舞うことと、治るまで身の回りの世話をするために、母と二人で行くことになったのだ。


 父は仕事が休めず、久しぶりの帰省が出来ないことを残念がっていたが、僕はむしろ、交代して行ってもらいたいくらいだった。


 都会育ちで虫は駄目、遊ぶ場所はなくて暇、周囲は田んぼと山だけの村を、僕はどうしても好きになれなかったからだ。


 父は昔から田舎の方が良かったと愚痴っていて、時々酒を飲んでは悲し気に実家の良さを延々と語るため、母もいい加減にしてほしいと、今でもぼやくほどだ。


 定年退職後は村に戻ると言っているらしいが、渋る母と違い、今の僕なら喜んで賛成する。


 しかし、昔の僕なら母と同じく嫌な顔をしただろう。


 それくらいあの村が嫌だったからだ。


 あの頃の僕はといえば、受験生として勉強漬けの毎日で、友人達と塾や図書館を行き来しているだけだったから、それなりに疲れていたのだと思う。


 希望する高校に入学したかったこともあり、とにかく必死で、成績の振るわない自分を怒りながら、とにかくがむしゃらに勉強していたはずだ。


 今では良い思い出だが、なぜあそこまで必死だったのかと聞かれると、答えられないくらい無意識だったのだろう。


 おかげで希望の高校には合格できたが、大学受験はそれほどでもなかったからだ。


 自分本位で行動していたこともあり、小学校以来の訪問に喜ぶこともなく、着いてすぐに、持参した勉強道具を広げて勉強していたくらいだった。


 そんな僕を心配した祖母は、腰の痛みを我慢して、僕が与えられた部屋に何度も来てくれていた。


 それを知っていながら邪険にしていた僕に母も怒り、この村に滞在している間は勉強時間を決められるという、何とも不思議な約束をさせられてしまったくらいだ。


 それからというもの、母も祖母も、何かにつけて僕を外に出したがるようになってしまい、あの日も祖母にお使いを頼まれたのだ。


「山の上にあるお店に、これを持って行けばいいの?」


「ああ、行って来てくれないかい?」


 幼い子供じゃあるまいし、と文句を言いたくなったが、どうやら祖母が定期的におこなっている大事な仕事らしく、腰を痛めたことでどうしようかと悩んでいたらしい。


 赤い風呂敷に包まれた四角い木箱は、年季が入っているのが一目でわかるほど古びていて、現在では再現できないほど複雑な組木細工が施されていた。


 物珍しさに触ろうとしたけれど、一緒にいた母に怒られたため、慌てて手を引っ込めた。


「そんな簡単に開きはしないけれど、開いたら大変なことになるから、絶対に開けようとしてはいけないよ」


 祖母に念を押されて一瞬怖くなったが、箱を抱えても何も起こらなかった。


 こんなことで……と恥ずかしくなったが、何となく、子供の頃に悪さをして怒られたことを思い出した。


「そういえば、前もこんな風に怒られた気がするなあ」


 すると祖母は僕を見て、「なんだ、覚えていたのかい」と驚いた。


 祖母の話だと、僕が小さい頃に、別の風呂敷に包まれた箱を開けようとしたので怒ったらしく、それ以来、僕がその箱に近づくことはなかったらしい。


 まったく記憶にないが、怒られたことは身に染みていたのだろう。


 箱を持つ手に力が入った。


 まだ日差しが強かったけれど、どうしても今日でなくては駄目だと祖母が言ったため、僕は麦わら帽子をかぶり、目的の店へと自転車を走らせたのだった。


 小高い山の上にあると言われたけれど、実際は少しだけ高低差のある道をいくつも越えた先にある、小さな山のちゅうふくにあった。


 店は本当に小さく、古びた一軒家のような外観をしている。


 壊れそうな引き戸を開けて中を覗くと、かすかにカビ臭い匂いがして、勢いよく顔を引っ込めて後ろを振り返った。


「何だよ、ここ。ただの廃墟じゃないのか」


 間違えたかと思い、来た道を少し戻るけれど、あの家以外に建物は見当たらない。


 道を進んでみても他に家はなく、木々が擦れる音が響くだけだ。


 もう一度中を覗いて声をかけると、奥から男性の声が聞こえた。


「誰ですか?」


 奥から出てきたのは優しそうな男性で、手にはもうひつを握っていた。


 いったい何をやっていたのか見当がつかず、考えるために黙っていると、彼は察したのか、微笑んで説明してくれた。


「これは仕事で使っているんだ。ちょうど仕事をしていたから慌ててしまってね。若い子には見慣れないから、驚かせてしまったね」


「いえ、こちらこそ黙り込んでしまってすみませんでした。祖母に頼まれてこちらを持ってきたのですが、シドウというお店はこちらで間違いありませんか?」


 精一杯の敬語で尋ねると、彼はうなずいて家に招いてくれた。


 どうやら祖母から連絡をもらっていたらしく、僕のことを怪しまずに受け入れてくれたようだった。


 店でありながら自宅だという家は、良くも悪くも普通だった。


 今では珍しい純和風の外観をしながらも、内装は洋式を多く取り入れていて、案内された客間は板張りの洋風仕立てだった。


 古いデザインのランプが小さなたんの上に飾られていて、女性でも男性でも好みが分かれるような、不思議な空間がそこにはあったのだ。


 祖母の家が田舎の家ということもあり、なんとなく居心地が悪い気はしたが、都会にある実家はこの家のように洋風だ。


 初めて来た家だったが、不思議と懐かしい気持ちになった。


「それでさっそくだけれど、ハルさんに頼まれたものを見せてくれないかな」


 部屋に似合わない和菓子と緑茶を出した男性は、僕がお茶を口にする前に、そんなことを言ってきた。


 よほど大事なものなのだろうと、慌てて風呂敷ごと渡すと、彼は微笑みを深めて包みを解いた。


「ああ、これは確かに急がなければならなかったね。良かったよ、今日中に持ってきてもらえて」


 箱に触れた彼はそう言うと、僕と視線を合わせて優しく笑った。


 理解できない自分を気遣ってくれたのだろうけど、状況どころか、この若い青年と祖母に、どんな繫がりがあるのか想像すらできない。


 変な考えを持つまいと、生ぬるいお茶を一気に飲み干したけれど、一度浮かんだ疑問は、なかなか頭から離れてくれなかった。


 窓に目をやると、夏の暑い日差しは、外を焦がしているようだった。


 あまり長居するのも悪いと思い、急いで店を出ようとすると、男性は笑顔で見送ってくれた。


「早く帰りなさい。じゃないと、すぐに見つかってしまうからね」


 意味深な言葉を言われたが、その日は曖昧な返事で帰ったと思う。


 なぜかあの時、彼の言葉が頭に入ってこなかったのだ。


 そして、それがいけなかったのだ。


 今でも忘れられない、あの日のあの出来事は、強烈な印象だけを残して記憶に焼き付いている。


 慣れない道を自転車で一気に駆け抜けようとした時だ。


 ふと横を見ると、古びた駅が見えた。


 まだ廃線にはなっていないが、とても古いこの村の駅だった。


 買い物帰りらしい主婦と、仕事の休憩に涼みに来たらしい老人達がホームの中にいて、特に仕切りがないからか、見ている間にも人が増えていく。


 普通ならば安全のために、進入禁止の柵があるはずなのだが、あまりにも古いためか、線路側にすら柵がない。


 危なっかしいな、と眉をひそめてペダルに足をかけると、どこからか制服姿の女子が現れた。


 ホームにいる人達と知り合いなのか、心配そうな顔で話しかけられていて、彼女はぎこちない笑みで答えている。


 その様子を何となく見ていると、ずっとぎこちない笑みを浮かべていた女子が、突然表情を変えたのだ。


 何かを考えているような、何も考えていないような、そんな表情を浮かべた彼女は、ゆっくりと僕の方にある線路へと視線を向ける。


 どこかへ出かけるのだろうかと思ったが、今は夏休みで、時間も夕方に近い。


 今から制服姿で行くところなど塾くらいなものだろうが、鞄すら持っていない。


 まさか手ぶらでは行かないだろう。


 真面目そうな見た目からもわかるくらい、大人しそうな子だ。


 そんな小学生の男子みたいなことはやらないだろうと、なぜかその時確信していたのだ。


 遠くで電車の音が聞こえてきたからか、それまで女子に話しかけていた主婦も、休憩をしていた老人達もホームを降りていく。


 誰も電車に乗らないのだろうかと、じっと見つめていると、ベンチに座ったままの女子が僕を見た。


 瞬間、背筋が凍った。


 彼女は笑ったのだ。


 にたり、とも、にやり、とも呼べる不気味な笑みを浮かべて。


 遠くから電車が近づいてくる。


 それはわかっているのに、体が動かない。


 このままここにいては駄目だと、頭の中で何かが伝えている気がする。


 嫌な予感がして、早くここから逃げなければと、ペダルにかけた足に力を入れようとする。


 しかし足は動かず、不気味な笑みを浮かべたままの彼女から、目をそらすことすら出来なかった。


 そして電車が目の前を通り過ぎようとした時、彼女の方から視線をそらされた。


 いや、彼女は落ちて行ったのだ。


 ホームの下へと。


 気が付けば、電車の運転手らしき男性が僕に話しかけていて、乗客らしき人達が慌ててホームを出ていっている。


 何人かの人は電車の正面、進行方向側の線路を、上から下から見ていて、写真を撮っては車掌らしき人に怒られていた。


 何があったのかと線路を見ると、斜め前に停車している電車の正面――側面の窓から見える運転席の窓の色が変わっていて、不自然に何かの色に染まって壊れていた。


 ああ、あの子が……。


 そんな言葉が出てきそうなほど、あっさりと状況を理解してしまった僕は、運転手の質問に答えながら地面を見つめた。


 それから警察が到着すると、僕は質問攻めに遭った。


 どうやら自殺した女子生徒はいじめを受けていたらしく、それを知る人々が励ましていたらしいのだが、彼女は亡くなってしまった。


 自宅では遺書が見つかり、すでに決めていたらしいとのことだった。


 僕は正面から一部始終を見ていたと思われたようだけど、あまりのショックからか、彼女が落ちたと思った瞬間からの記憶が全くなかった。


 僕の関与を疑う人もいたけれど、事故から三日も経つと大人しくなって、怒りながら対応していた祖母と母の話を、素直に信じてくれるようになっていた。


 しかし、僕は部屋に籠もっていた。


 事故が怖かったからだとか、人が轢かれる瞬間を見てトラウマになったからだとか、そんな理由で引きこもっていたわけではない。


 事故の瞬間を覚えていなかったこともあり、ショックで記憶が飛んだのだろうと警察は判断して、早々に家に帰してもらえたものの、事故よりも酷いことが家で待っていたのだ。


 コツリ、と部屋の窓から音がした。


 肩を揺らして、カーテンで見えない窓の方を向くと、外からの光で人影が出来ているのが見える。


 コツリ、コツリと、一定の間隔で窓を叩いているようで、腕らしき影がゆっくりと動いている。


 小学生の頃であったのならば、好奇心からすぐカーテンを開けていただろう。


 けれど、中学生になった今では、あの頃のように無邪気に、何も考えないで近寄ることなどできなかった。


「――勘弁してくれよ。こんなところに人が来れるわけないじゃないか……」


 思わず声に出してそう言うと、途端に寒気がする。


 どうやら窓越しにいる誰かに聞こえたらしく、今度は強く、間隔など無視して窓を叩きだした。


 事故の日から、朝も夜も関係なしに現れる影。


 カーテンで目隠ししているため、誰なのかまではわからないが、時間が経つほど冷静になる頭の中では、もうすでに答えらしきものが出ていた。


 それでも認めたくなくて目をそらしてきたけれど、このままにしておいては眠ることすら出来ない。


 窓があるのはベッドのすぐ上だ。


 寝ていれば嫌でも視界に入るし、カーテンのたけが短いため、見上げれば外が見えてしまう。


 気づきたくはなかったと思ったのだが、このままでは心配しすぎる母に、病院に連れて行かれてしまうのは必然だ。


 しばらく一人にしておきなさい、と言ってくれた祖母も心配し始めたため、もう猶予はなかった。


 相談しようにも影は誰にも見えない。


 何度か部屋に入ってきた母がいる時に現れても、何も聞こえない、何も見えないまま、母は部屋を出て行ってしまった。


 祖母も同じだった。


 僕が窓を気にしていることには気づいたけれど、その向こうにいる何かには気づかないままだった。


 なぜ自分が、と頭を抱えたまま机に突っ伏す。


 もう何も見たくないし、何も聞きたくないのに、目を伏せても音は聞こえてくる。


 耳を塞げばある程度聞こえなくなるが、その態度を見ているかのように、影はさらに強く窓を叩きだす。


 いったい何なんだ。


 僕が何をしたというのだ。


 日を追うごとに影がいる時間が増えていき、朝から晩まで、不定期に何度も現れるようになった。


 まだ三日しか経っていないというのに、こんなにもしつこく付きまとってくるのもどうかと思う。


 しかし、この時の自分にそんな考えが浮かぶ余裕などなく、眠るためのベッドに近づく気持ちも失せていて、昨日からずっと、机にしがみつくように窓から離れていた。


 食事とトイレ以外で部屋から出ることはなくなり、外出すら怖くて出来なかった。


 僕の部屋は玄関の真上にあるため、外に出れば嫌でも窓の下を通らなければならない。


 その時に何かあったら、と思うと、恐怖で体が動かなくなるのだ。


 小さい頃には信じていた心霊現象も、成長と共に信じる気持ちが薄れていき、今回の出来事まで恐怖すら忘れていた。


 けれど今、目の前で起こっていることは夢ではない。


 何度も頬をつねったり、足や手を叩いたり、夢ならば覚めろと、できる限りのことはやった。


 けれど、痛いだけだった。


 何度眠っては起きても、窓の影は変わらず出て来るのだ。


 もういっそ、外に出て影の正体を見てみようか。


 それで何が起こるかわからないけれど、こんな状況を家に帰るまで続けられては、頭がおかしくなりそうだった。


 むしろ、帰ってからも続くかもしれないと、嫌な考えばかりが浮かんでくる。


 眠りすぎて眠る気がなくなってしまった今、もう心が限界だった。


「入るよ」


 頭を抱えてうなろうとした時、祖母が部屋に入ってきた。


 いつもならば返事があるまで入ってこないのに、その時は珍しく、言葉と同時に中に入ってきた。


「ばあちゃん、どうかしたの。顔が怖いよ」


 いつも笑顔の祖母が珍しく怖い顔をしていて、何か怒らせることでもしたかと立ち上がった。


 すると祖母は大きく息を吐き、窓を見て「ついてきちゃったんだね」と僕を見た。


 思わずうなずくと、祖母はまた息を吐いて窓に近づいた。


 窓に手が届くほど距離を詰めると、一気にカーテンを開けたのだ。


 久しぶりの日光に目がくらみ、手で目元をかばうと、窓の外を見つめる祖母に気がついて慌てた。


「ば、ばあちゃん、早くカーテン閉めて。じゃないと」


「何かがいるから危ない、かい?」


 まるで僕の頭の中を読んだかのように言葉を続けた祖母は、僕から窓に視線を移して、また大きく息を吐いた。


「まったく、娘も婿も平気だから大丈夫だと思っていたのに、孫に遺伝するとはねえ。これもまた、この家の血が引き起こした事かと思うと、もう呆れて何も言いたくなくなるよ」


 自嘲めいた笑みを浮かべて窓に手を当てた祖母は、目を閉じて口を動かすと、ゆっくり僕を見た。


 見たことがない祖母の様子に言葉を失っていたけれど、祖母は優しく微笑んで頭を撫でてくれた。


「よく我慢したねえ。でも、これはお前だけの問題じゃないんだ。早くあの子を離してあげないと、お前もあの子も駄目になってしまうよ。さあ、今からあの店に行きなさい」


「え……、それってどういう事。あの子ってまさか」


「詳しい話は後で聞くから、早く店に行きなさい。連絡はしておくから、日が暮れる前に帰っておいで」


 そう言ってまた頭を撫でた祖母に見送られ、僕は再びあの店へと向かったのだった。


 二度目になる店への訪問は簡単で、ほとんど真っすぐな道をひたすら進むだけだった。


 最初は慣れないためか、いつまで経っても着かない気持ちでいっぱいだったが、今回はあっないほど早く着いたのだ。


 自転車を置いて玄関に行くと、まるで見ていたかのようにタイミングよく男性が出てきた。


 彼は僕を見て動きを止めると、すぐ笑顔になって招き入れてくれた。


「ハルさんから話は聞いているよ。これは確かに、早くした方がいいね」


 お茶と和菓子に手をつける気が起きず、ただ黙って男性の言葉を聞いていたけれど、どうしても自分の状況がわからなかった。


 僕に何かあると思っているはずなのに、影の話は一度もしてこない。


 ここに来てみたものの、男性は何もせず話しかけてくるだけで、学校の事や友達の事を聞いてくるだけだった。


 あれほど苦しんだのに、これはいったいどういう事なのか。


 ここに来る間も、祖母の言いつけを守って後ろを振り返らず、気配や視線を感じても我慢して来たというのに、まさか世間話をするだけで終わるつもりなのだろうか。


 目の前で微笑む男を疑いだした頃、突然、窓がコツリ、と鳴った。


 大げさに体を揺らした僕とは反対に、男は微笑んだまま窓を見た。


「ああ、やっと来てくれたようだね。君が早く来たものだから、彼女が付いてこれられず迷ってしまっていたんだよ」


 コツリ、コツリと、三日も聞いている音が聞こえだすと、恐怖心に飲み込まれそうな僕を覆い隠すように彼は立ち上がった。


 見た目以上に長身な彼が背を向けると、音がする窓に向かってこう言ったのだ。


「今からそちらへ行くから、待っていてくれないか。日が暮れる前には着くからね」


 すると音はピタリと止み、うるさいくらいの蝉の大合唱が響いてきたのだ。


 いったい何があったのかと男を見ると、彼は笑って僕を外へと連れだした。


 来た時よりも日は落ちていたが、それでも照りつくような暑さは消えていない。


 慣れない砂利道に悪戦苦闘しながら自転車で来たのだが、男は時間がないと言って車を出してくれた。


 優しそうな見た目には合うだろうが、普通の成人男性が乗るようなものではない、可愛いフォルムの軽自動車に乗せられ、向かったのは村にある唯一の駅だった。


 警察も報道陣もすでにいなくなっていたが、事故の影響からか、涼みに来る人は見当たらなかった。


「さてと。まずは駅のホームに行こうか。話はそれからだよ」


 トラウマにこそなっていないが、事故の現場を目の前で見た本人相手に、あっさりとそんなことを言ってきた。


 僕は彼に文句を言おうとしたが、それより先に車から降りた男は、柵のない駅の中に、線路側から堂々と入っていった。


 彼を追ってホームの中に入ると、蝉の声にまぎれて近所の人達の声が聞こえてきたが、遠すぎて内容まではわからない。


 下からしか見たことがなかったが、ホーム内はとても綺麗で、壁や床を何度も塗り直しているらしく、あちこちにデコボコが見える。


 あんな事故さえなければ、今もここには、涼を求めて人が集まっていたことだろう。


 しかしなぜだか、そんな考えがおかしな事に思えてならなかったのだ。


 あの制服を着た女子が落ちた場所には花が置かれていて、電車が通り過ぎるたびに飛ばされたのか、いくつもの花束があちこちに散らばっている。


 誰かが直したりしているのか、花びらだけが飛んだのかはわからないが、駅のあちこちには、色とりどりの花びらが揺れるように落ちていた。


「どうやら彼女も着いたらしいね。やっと本題に入れるよ」


 彼が言うやいなや、背中に悪寒が走った。


 あれほど暑かったホーム内には冷たい風が吹き始め、供えられた花束がゆっくりと揺れだしている。


 どういう事だと男を見るが、彼の視線は線路から動かず、何を見ているのだと線路を見ると、そこには見たことがある少女が立っていたのだ。


 彼女は最期に来ていた制服を赤く染め、血がしたたる頭をゆっくりと揺らしながら動き出す。


 血まみれになった手足は言う事をきかないようで、何度か動かそうとしていたが、思う様に動かず何度も倒れた。


 それを見た僕は、異様な光景に血の気が引いた。


「あ、あの人は、まさか……」


「そう、ここで亡くなった女子生徒だよ」


 僕の言葉に続くようにそう言った男は、とうとう立ち上がれなくなってしまった女の子を見ながら、ゆっくりと目を細めた。


「ハルさんに言われたけれど、どうやら彼女は、本当に君が気に入ってしまったようだね」


「は……あ、なにいってんだよ。気に入ったって、それってどういう事だよ」


「言葉の通りだよ。彼女は君を追いかけてきたし、君と話がしたくて、家までついていったんだ」


 驚いて女の子を見ると、動けなくなっていた彼女は、血まみれの体でまた立ち上がっていた。


 事故現場を見たわけではないが、今の彼女が亡くなった時のままであるのならば、とてもじゃないが動けやしないだろう。


 ようやく気づいたが、彼女は首が信じられない角度に曲がっていて、手足も血まみれでよくわからないが、おそらく普通の状態ではないはずだ。


 生きているはずはないと確信できたのに、彼女が死んでいるとは思えなかった。


 一目で重傷だと、即死だと言えるような外見なのに、どうしても彼女が死んでいるとは思えなかったのだ。


 答えが欲しくて男を見ると、彼は微笑んで僕と目を合わせた。


 その目は見たことがないくらい深く、いびつで、これまで感じたことのない恐怖を見た気がする。


 一歩後ずさると、彼は最初に見た普通の優しい目に戻っていた。


「ごめん、ごめん、久しぶりの依頼だったから張り切ってしまってね。ついやってしまったよ」


 すまなそうに頭を下げたが、いったい何の話だと問い詰める気持ちは起きなかった。


 荒くなりそうな息を整えて男から視線をそらすと、動けない女子生徒と目が合った気がした。


 すると彼女は動くのを止め、大人しく男を見たのだ。


「……そうかい。なら、君の望み通りにしてあげるよ。さあ、おいで」


 男と彼女の間に言葉はなかったのに、わずか数秒、いや、もう少し長い沈黙から先に話し出した男は、彼女に向かって手の平を差し出した。


 すると女子生徒はゆっくりとその姿を揺らめかせ、液体のようになって男へと吸い寄せられたのだ。


 注がれる液体のように、男の手の平に集まった少女は、集まるのと同時に、ゆっくりとその場でかたちづくられていく小瓶の中に溜まっていく。


 最後の一滴が瓶に納まると、空中から現れた蓋で閉められて、彼の手の平にポトンと落ち着いた。


 何が起こったのか分からず、呆然としていたが、彼の手の平に納まった物には見覚えがある。


 自分には全くえんがないものだが、学校の授業で作家の話になると、教師が必ず、その作家が使っていたという筆記用具を説明し出すからだ。


 なんにでも興味を持つように、との配慮らしいが、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。


「それって、インクびん、ですかか?」


「へえ、若いのによく知ってるね。今じゃ一部の愛好家くらいしか知らないのに。うん、そうだよ。これはインク瓶だ」


 差し出された瓶に恐る恐る触れてみると、いつの間にか戻ってきた暑さのせいか、瓶を冷たく感じた。


 自分の見たことが夢でないのならば、この瓶に納まっているのは例の女の子という事になるのだけれど、瓶の中身が動くことはないし、異常に冷たいわけでもない。


 本物を触ったことはなかったが、これはどこをどう見ても、ただのインク瓶だった。


「これは君が見た通り、ここで亡くなった女子生徒だよ。理屈だとか、詳しい説明はできないけれど、オカルトチックに言うのであれば、これは私自身の能力でこうしたというだけだ」


「じゃ、じゃあ、あの子を、この中に閉じ込めたってことですか」


 当時流行っていた漫画には、霊を何かの入れ物に閉じ込めて封印するという描写があった。


 それをじかに見たのかと思って問うと、彼は首を振って否定した。


「封印じゃないよ。これはそうだね……彼女の休憩所みたいなものさ。私は、どこにも行けず、何も語れない人を休ませて、動けるようになるまでの場所を提供するのが仕事なんだ」


「……意味が分かりません。語らせるとか、休ませるとか、そんなこと必要なんですか? それよりも、早く成仏させるとか、はらうとかして、ちゃんとしたところに帰せばいいじゃないか」


 訳が分からずそう言うと、男は少し怒った顔になり、また首を振って否定した。


「それは最後の手段だよ。成仏もお祓いも、力ずくで霊を抹消してしまうことに等しいんだ。ちゃんと話をして、話をさせて、相手を納得させなければ、行くべきところへは行けないし、帰る場所へも帰れなくなる。現実でも、そういった仕事をしている人はいるけれど、君の言うやり方は、知識も礼儀も知らない人がよくやる暴力と同じなんだ」


「大げさでしょ。だって、いい霊ならまだしも、悪い霊ならどうするんですか。人が死んでからじゃ遅いですよ」


「良い霊、悪い霊、と昔から人は言うけれど、どちらも違いはないよ。良い霊だからって何もしないわけじゃないし、悪い霊だからって悪さをするわけじゃない。どちらも行き場をなくして困っている人達であって、必ずしも生きている人に害をなすわけではないんだ。祟りや呪いというのは、霊の気持ちも知らずに、成仏だのお祓いだのと、力がない人や知識がない人が勝手なことをして、亡き人の怒りを買っているにすぎない。もちろん、中には好んで悪さをする人もいるけれどね」


「でも、だからって話せないわけじゃないでしょう。なんでわざわざこんなことするんですか」


「言っただろう、話せないからだと。いつの時代も、死者や霊魂に夢を持つのか、人間が霊と話したり、神と語り合ったりする物語は多い。けれど、現実はそう単純じゃない。静かに、穏やかに、自分の死をゆっくりと受け入れられた人であれば、未練も少なくこの世に留まることはまずないけれど、事故や殺人、あるいは突然死などであれば、そう簡単にはいかないんだ。亡くなった人自身が死を受け入れられず、死んだことにすら気づかない事も多いし、気づけたところで死を受け入れられずにいることだってある。死んだ時の姿が悲惨で、口もきけず動くのもままならないとなれば、自分の意志ではどうにもできないものなんだよ」


 僕に言い聞かせるように説明してくれた彼だったが、オカルトに興味がなかった僕には半分も理解できなかった。


 ただ、亡くなった人は誰しも危害を加えるわけではなく、誰もが見えて、話し合えるわけではないということはわかった。


 死んだ時の姿、という言葉で理解できたのは、僕がたった今見た彼女は、自分の死を受け入れられず迷っていたという事だ。


 そう考えた瞬間、ずっと重かった体が軽くなるのを感じた。


 足も手も、嘘みたいに軽く動くようになると、男は優しく微笑んで小瓶を撫でた。


「どうやら、君から離れても大丈夫になったようだね。これでもう大丈夫だよ」


「どういう事、ですか。気に入ったとか、大丈夫とか、もしかして僕は、彼女にりつかれていたんですか」


「それは違うよ。彼女は君と話そうとしていただけだ。けれど、君は彼女を拒絶していたから、君と話そうと深くまで入ってきていただけなんだよ。それが運悪く、拒絶反応のようになってしまって、君の体を動きにくくしていたんだ」


 言われてみると、なんとなく意味は分かった。


 けれど、だからといって、なんで自分なんだと男に聞いてみると、彼は苦笑いを浮かべて頬をかいた。


「それはまだわからない。彼女はまだ自分の死を受け入れたわけじゃないし、この世の未練を断ち切ったわけでもないからね。あくまでも君との会話を諦めただけであって、誰かと話したいという気持ちは残っているんだ。でも、冷静に話し合えるほど意識は落ち着いていないから、だからこその休憩なんだよ」


「話したいとかいうなら、あなたと話せばよかったじゃないんですか。あなたは彼女を見れたし、話すこともできたんでしょう。なら、すぐにでも話し合えばよかったじゃないですか」


 そう言うと、彼は本当に困った顔になってしまった。


「これは説明が難しいんだけど、僕は語らせることはできても、話し合ったり説得したりはできないんだ。やり方も普通とは違うから、霊能者と呼ばれる人たちよりも時間がかかるし、効率もよくない。でも、待つことはできる。だからこそ僕がいるんだよ」


 霊能者と呼ばれる人とは違うやり方で、効率が悪く時間もかかる仕事。


 語らせることはできても、話し合ったり説得したりすることはできない彼の能力。


 まだ何もわからなかった僕だったけれど、彼の手に納まる小瓶の中の彼女は、インクのような姿で動かないのを見て、彼は信用できると、そう思った。


 それが正しい考えだったのかは、今でもわからないけれど、それでもこうして書き残そうと思うくらいには、今でも彼を信じているのだろう。


 心霊現象を科学で解明できるとされている時代に起きた不思議な体験は、それからの僕を巻き込んで、多くの事を学ばせてくれた。


 信じない人ならば、くだらないと一蹴するだろうが、僕は全てが現実だったと思っている。


 この話を書くにあたって、僕は担当になった人にこんな約束をした。


 ――これは読む人が判断する、本当にあった話だと思ってください。


 ――現実的ではない、創作でしかないと感じても、僕が書く話を否定しないでください。


 ――どんなに奇妙な内容でも、筋が通っていれば作品として扱ってください。


 この三つの約束を条件として、この話を一つの作品として書いてみることにしました。


 彼が読めば苦笑いされそうですが、それでも僕は、僕なりに語りたいのです。


 これは学生だった僕と、奇妙な仕事をなりわいとする男との、な日々の記録です。


 けして創作した話ではありませんので、しからず。










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飛び込んだ少女 逢雲千生 @houn_itsuki

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