第2話


 底なしの瘴気――。


 おどろおどろしい気配が足許から伸びてきては切れ切れの戦意をまとめて引きずり込もうとしている。


 【心優しき少女・ユキコ】


 御空色みそらいろの着物は彼女の白蠟めいた肌によく似合ってはいたが、その容姿に見惚れていられるほど悠長にくつろげる状況ではなかった。


 眼前に立ち塞がる脅威に、ユキコは苦戦を強いられていた。


 彼女の視線は今、マシンロイド木偶人形デッキのなかで最強と畏れられているシェルキャラクター――【オートマタ・シノギ】に向けられている。


 険しい表情で歯を食いしばるユキコ。



 瘴気に当てられ、体力を奪われている彼女は息も絶え絶えで立っているだけで辛そうだ。


 それでも決してその瞳はくすまない。残された気力と挫けぬ意志がそこに光を見せている。



 背負うものが、守るものがあるのだと。



 そんなユキコの隣から泣き声が漏れてくる。

 とても小さな。放っとけばそのまま溶けてなくなりそうな声。


 「セッちゃん、しっかりして」


 ユキコは振り向き、声の主である【泣き虫女の子・セツ】に声をかける。


 「泣いてたって状況は変わらないの。さあ、恐がらずに前を向いて。どうすれば打開できるか、一緒に考えよう」


 「そんなの、ムリだよぉ。ひぐっ」


 両眼に浮かべた涙を何度も拭いながら、セツは声も身体も震わせた。俯きながら弱音を吐く。


 「アレを、見なよ、おねえちゃん。あんなに、恐いんだよ。やだよ。セツ、戦いたくない」


 声は掠れ、苦しそうに息継ぎをする。


 セツが恐がるのも無理はない。シノギの出で立ちはそれだけひどく不気味なものだった。


 錆び付いたボディにはその要因であろうが幾重にも塗り重ねられている。金属特有の滑らかさや光沢などとは無縁の、棘っぽい殺伐としたものだ。引き千切ったのか潰れたのか、六本あった腕のうち四本が途中でなくなり、断面から無数の管や金属部品が飛び出している。残った二本は人間じみた見た目をしていて、日本刀にも薙刀にも似た、刀身がボロボロの刃を持ち、顔らしき部位の前で構えている。全身から噴き出す蒸気にシノギはひどく振動していて、その度に足腰から麻縄で繋がれたヒトの形をした腕や足がぶらぶらと揺れていた。



 「それに何度やったって倒れないもん。絶対に勝てっこないよ……」


 絶望の意をこぼすセツ。


 それを受けてユキコの視線がシノギの左右にポップ配置された二枚のカードに向けられる。


 【リペアキット】と【再始動】――スウィフトカードだ。


 スウィフトとはシェルと異なる攻撃手段や様々な特殊効果を持つ補助カードだ。多くの場合がエリア盤面にポップした時点で効力を発揮する。


 【リペアキット】は自分のエリアにポップされているシェルを一体選択し、それがダメージを受けると直後に体力を初期値まで回復させるというものだ。これは使い切りだが、【再始動】を適用することで永続的に効果が使用できるようになる。


 これによりシェルによる攻撃しか受け付けない能力をもつシノギは絶対的な優位を確立する。


 シノギが最強たる所以ゆえんだ。




 「セッちゃん、よく聞いて」


 ユキコはセツのそばにしゃがみ込むと彼女の泣き腫らした眼許に袖口を当てた。


 「勝負に絶対なんてないわ。勝つ方法は必ずどこかにある。それに――」


 ユキコは肩越しで背後にあるものを仰ぎ見る。


 「私たちにはこれがあるもの」


 七色に明滅する巨大な結晶の塊がそこにはあった。

 頭上高くに屹立する結晶岩は内側から染み出すような光で輪郭をぼんやりさせている。瘴気渦巻く暗澹とした空間では、その鮮やかさがかえって歪にさえ思えてしまう。


 「は私たちに禁断の叡智を与えてくれた。カルォナくして今の私たちはないの。何としてでも守り通さなくちゃ」


 「そんなのセツ、知らないもん!」


 セツが首を横に振って拒絶する。


 「関係ないもん。セツそんなの頼んでない……恐い理由があれなら、さっさと壊れちゃえばいいよ」


 再び恐さがまさってきたのか、しゃくり上げながら。


 「セツはチャコがいればいいもん」


 隣で心配そうに自分を見つめていた【見習い子狐・チャコ】を抱き寄せ、顔をうずめた。


 チャコはセツの胸のなかでクゥンと寂しげに鳴いている。


 「だけどね、セッちゃん。チャコだって同じなんだよ」


 セツの頭を優しく撫でてやる。掌が触れる度に、セツの髪から舞った粉雪が星くずのように散る。


 「あれが失くなったら何もかも消えるんだよ?泣くことも、お話しすることも、一緒にいたいと思うことだって……セッちゃんが今望んでいる事が全部――」


 「うるさいっ!」


 セツがユキコの腕を払いのけた。


 「分かんないっ!分かんないよ!おねえちゃんが何言ってるか、全っ然分かんないっ!セツはセツだもん!セツだからっ……だから……だから……」


 本当に理解していないのか、それとも認めたくないだけなのか、セツの頭のなかはユキコには知り得ない。

 だが事実を受け入れたくないという、彼女の気持ちはよく伝わった。


 誰だって消えたくなんかない。決まっている。


 悔しい。どうにかならないものか。


 ユキコは苛立たしげに爪を噛み、考えを巡らせる。何か良い方法はないかと必死に――。



 「えっ」


 だが思考はすぐに奇怪な音に遮られてしまう。


 ギィギィとこすれるような音。


 ユキコが顔を上げると、千切れんばかりにシノギが胴体をねじっていた。八尺もの大太刀の先端を地に付け背に構えている。蒸気は先よりも過激で周囲に靄を作っている。


 シノギは攻撃態勢に入っていた。


 「そんな!?まだこっちのターンなのに!」


 驚愕するユキコ。ルール無視のその行動に表情は恐怖の色に染まる。


 刃先が光り出した。靄の中のそれは瘴気を吸って淀み、ぬくもりなど到底感じられない。


 そして一際激しく蒸気を吐き出したところでシノギは大上段に振り上げた。


 火花を散らしながら地に深々と弧線を描き、勢いよく振り上げられた大太刀が空を斬り裂く。シノギを包んでいた靄は刹那に晴れ、同時に刃先から念を込めた空弾がユキコたち目掛けて放たれた。


 まずい。

 早く逃げなければ。


 だがルールに縛られたままのユキコは動けないでいた。


 あんなものを喰らえば一巻の終わりだ。間違いなく消滅してしまう。このままでは苦しみを知っただけで彼女たちは彼方の闇へ落ちていくだろう。


 それなのに身体は言うことを聞かない。少女はただぎゅっと瞼を閉じるしかなかった。



 絶体絶命のその時。



 チャコが動いた。セツの腕から強引に抜けだし、二人の前に飛び出す。



 「チャコーーーっ!」


 セツが叫ぶ。


 空弾はチャコの身体に直撃した。


 上空に打ち上げられ、そのまま地面へ落ちた。


 そばに駆け寄り、セツがチャコの身体を揺する。彼女の呼び掛けにチャコは弱々しく鳴き返すが、その眼は開くことはなく呼吸もひどく乱れている。


 わんわん泣き喚くセツ。悲痛の叫びが轟き、頬を涙が濡らす。彼女が抱きしめると涙の雫がチャコの顔に零れ落ちた。


 ユキコはそんな様子を見つめ、拳を握り締める。


 「卑怯者っ!」シノギを睨みつけ吼える。「そこまでして私たちを消したいの?!」


 許すことなどできなかった。異物を問答無用で排斥しようとする意向に。

 なぜ進化を、変化を、新たな一歩を築く萌芽ほうがだと認められないのか。

 どうして常識の輪の中に溶け込み、同じであろうとするのか。

 違うものを畏れ、拒むものに厳しい。ゲームの基盤が現実の社会をもとに組み立てられているから、周りと異なるユキコたちは壊すべき存在だと言いたいのか。


 優しい心を持った彼女には今、強く激しい憎悪がはっきりと見て取れる。



 それが明確な殺意へと変わった瞬間――。


 背後のカルォナが強く発光した。


 耀きは増していき、エリアを包んでいた瘴気を呑み込んでいく。


 エリアに新たなスウィフトがポップされた。


 【晦冥かいめいの樹氷】


 このカードが持つ効果に従い、さらにもう一枚【晦冥の樹氷】がポップされる。


 すると突如、凍えそうな冷気が周囲に吹き荒れはじめた。【神雪の洗礼】がデザイン《環境》にポップされ、エリアカラーを【吹雪】に変更したのだ。


 条件は整っていた。


 チャコの身体がゆっくりと耀きだした。

 光に包まれながら、セツの腕を離れて徐々に宙空を昇っていく。


 そこには既にルールなど存在していなかった。悪戯など知らない愚直で蛮勇な心は暗い底に沈んだ。自己のしがらみから彼女たちは解き放たれていた。


 チャコを包んでいた光が弾ける。



 直後にエリアを貫く冷徹なる咆吼。



 拡散した光から現れたのは、居丈高に雄叫びを上げた幻獣だった。


 【万物を侵す氷弧・チャコ】


 特別な手順を踏まなければ見ることができないその姿。だが世界の理から外れた彼女たちにはもはやルールなど関係ない。


 艶やかな体毛から冷気を放ち、チャコは九つの尾を傲然と振り立てる。カルォナに引けを取らない巨体が見せる双眸には、知性と狂気が詰まっている。



 ユキコは冷然とした幻獣を見上げ、そして不敵に笑む。


 「……壊せ」



 チャコが再び咆吼した。猛々しい重圧が空間を喰らい、それは衝撃波となって豪雪を二股に裂きながら相手のスウィフトを粉砕した。



 幻獣が望むのはエリアの一掃。


 そしてゲームそのものの破壊。



 シノギが武器を握り直して身構えた。相変わらず不気味に揺れているが、今じゃそれも幻獣に恐怖し震えているようにも見えなくない。


 斬撃が繰り出される。

 三つの空弾がチャコを目標に飛んでいった。


 それを確認してチャコが頭をもたげる。大きく息を吸い込み、前傾姿勢になって大口を開くと、そこから青白い火の玉が吐き出された。


 全てを覆い尽くす、絶凍ぜっとう零火れいか――。


 火の玉は瞬く間に空弾を凍り付かせ、速度を落とすことなくシノギを呑み込むと、その場に氷の荊を彫刻させた。


 原理原則を廃し、一切の妥協を許さない非情さで


 幻獣の猛攻は尚も収まらない。


 無作為に吐き出された青き炎は壁や天井を容易く氷漬けにしていった。幾筋もの稲妻が走り、空間上の機能はどんどん消滅していく。


 「壊れろっ!」


 ユキコは叫んだ。


 「壊れろ!何もかも壊れてしまえ!」


 狂った蓄音機のように高々と笑いながら、凍結していく世界を凝視する。


 その後ろで異常が生じる。


 鮮やかに光を放っていたカルォナが黒ずみ始めたのだ。小さな渦がじわじわと膨らみカルォナの内側を侵蝕していく。それに連なって表面の至るところに亀裂が入る。


 やがて抑えきれなくなった渦は外へと飛び出し、密の高い黒煙を撒き散らした。


 そんな不吉な状況にもユキコは動じない。虚ろな眼で笑い続け、呪詛みたく同じ言葉を繰り返す。


 コワレロコワレロコワレロコワレロコワレロ――。


 データは壊れ、本来のユキコはもういなかった。ノイズが起こり、彼女の身体ピクセルは粗く乱れ、髪を着物を肌をあざのようなものが這いだした。


 それは周囲にも拡がっていき、峻厳ながらも壮麗な銀世界を終焉の色に染め上げていく。


 そして。


 ぷつん、と糸が切れたような簡素な音と共に世界は消失した。


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