第3話 老人は去り行く
4月の末の土曜。ゴールデンウイークが始まっている。明後日から二泊三日で家族旅行だ。金沢市立美術館で行われている、荒木田博夫先生の原画展を見に行こうと計画している。昨日から、東京で暮らしている大学生の息子も帰省している。息子の好物のチョコチップ入りおからクッキーを焼く。砂糖、バター、卵におからを入れ、ココアとホットケーキミックス、チョコチップを混ぜて焼くだけ。簡単で、ふわっとした食感、ココアの風味も楽しめる。オーブンに入れてだんだん良い香りがしてきた頃に携帯電話が鳴った。姉の美佐子からだ。
「もしもし侑子ちゃん?美佐子よ。いま老人ホームから連絡があって。おじいちゃん具合が悪くなったって。これから私行ってくる。詳しくは電話するから」
一息で姉は話して、電話は切れた。おじいちゃん、というのは、埼玉県の大宮に住む、私たち姉妹の父の小川孝夫のことだ。ちょうどオーブンの焼き上がりを知らせるピーという音が鳴った。私は息子の蓮を呼び、オーブン皿からお菓子の缶にクッキーを移すように頼んだ。部屋中がココアクッキーの甘い香りでいっぱいでむんむんしている。蓮は早速クッキーをつまんでいる。
私は夫の仕事部屋をノックした。
「お仕事中ごめんなさい。おじいちゃん具合が悪いみたい。明日からの旅行、私やめておくから、貫一さんと蓮で行ってくれないかな?」
「お姉さんから電話あったの、その話なんだね。そんなに悪いの?」
「いま美佐子ちゃん老人ホームに向かってるから。そのうち連絡あると思う。」
話している間に、私の携帯には姉からのメールが来ていた。老人ホームから来た連絡内容を、移動中に私に知らせてくれていた。朝食時間に父は起きてこず、熱を測ったら38℃あり、老人ホーム近くの病院に搬送された、と書かれていた。
私は旅行用に準備していたリュックサックの中身を詰め替え、自分が実家に泊まりに行くときの用意を始めた。旅行ガイドブックは蓮に引き継いだ。姉からの連絡次第では、明日にでも実家に帰り、父の看病に当たらなければならなくなる。いずれ来るとは予想していたが、いざとなると慌ててしまう。
父は昭和3年(1928年)の8月生まれだから、現在93歳だ。母が自宅で脳出血で亡くなってから、一人暮らしをしていたが、87歳の時に老人ホームに入った。理由は、トイレの失敗が増えたからだ。もっとも、それ以外は何も病気もなく、認知症もあまり進まず、姉や私の来訪を喜んで、日々平穏に暮らしていた父だが、よる年波には勝てない。問題はオワリ法の制定だ。オワリ法によれば、法律制定時に75歳をすでに超えている人に対しては、自己申告なしにオワリ法が適用される。
75歳を超えている人が病気になった場合、財産を信託する手続きをしなければ、一週間しか病院にいられない。自宅で療養しなければならないのだ。自宅での療養も難しい人は、廃校になった校舎を活用した施設を利用できる。全国各地で、そういったオワリケア病棟が整備されている、と新聞に出ていた。病棟では、食事を運ぶロボットも活躍しているらしい。
リュックサックの詰め替えを終えると、再び姉から電話が来た。
「いまおじいちゃんの運ばれた病院に来たとこ。肺炎らしいって。いまは寝てる」
「私、どうしたらいいかな?」
「病院は、オワリケアの対象者は治療しませんって。一週間以内に退院手続きするようにって言われたわよ。今日は私、ここで看病するから、明日、侑子ちゃん来てくれるかな?」
「そのつもりで用意してたとこ。お姉ちゃんも忙しいのにごめんね」
「大丈夫。じゃ明日会って引継ぎしようね。」
姉の美佐子は、東京で結婚して夫、夫の母と暮らしている。娘、息子も結婚してそれぞれ二人ずつ子供が生まれているから、姉自身がもう「おばあちゃん」だ。姉は夫のお母さんのケアもしているので、父のオワリケアを担当するなら私しかいない。私は再び夫の部屋をノックして言った。
「大宮のおじいちゃんのオワリケア、実家でやることにするから。私、しばらく実家に住むから。貫一さんにも迷惑かけるけどごめんね」
「わかった。何かやることあったらメールして」
「ありがとう。予定通り蓮と旅行楽しんできてね。写真シェアしてね」
夫は部屋から出てきて、私の頭に手のひらを乗せて小声で、大丈夫、といった。
そして、蓮の隣に座って同じようにクッキーをつまみ始めた。
命の終わらせかた ケーファー睦 @kaefer623
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