恋のような何か

あの頃、たぶん私は彼が好きだった。


たぶん高校生の私にとって彼はただ「ちょうど良い」存在だった。優しくて、程よくお茶目で、程よく真面目で、何より私は彼のことをそんなに知らなかった。

芸術の選択科目で同じ授業を受けたことがあるだけでクラスも別だし、部活は文芸部の私からは滅多に姿も見えない弓道部。

相手のことを知りたいと思うのが恋だ、なんて聞いたことがある。恋を知らないから、それが真理かは知らないが、確かに私は彼の新しい顔を見るたび、鼓動が速くなったのを覚えている。カメラが趣味だと聞いた時。将来は教師になりたいのだと聞いた時。体の芯に何かこう、溶けたキャラメルのように甘くて粘性の高いものを流し込まれて、口元が私の制御を離れて勝手に緩むような気がした。

恋に恋するお年頃、とはよく言ったものだ。偶然ちょっと2人きりになってしまってから、まんまとそんなふうに意識するようになった。


まだ時間の割に陽が高い夏の放課後だった。その内容までは忘れたが、教師にそれぞれ用を済まし、同時に職員室を出てきた私達は、なんとなしに校門まで並んで歩いた。白いシャツの袖から伸びた逞しい腕は、私とは随分違う、などと思った。何を話したかなんてほとんど覚えていない。たどたどしく勉強や進路の話をしたくらいだっただろう。それでもただ2人きりで歩いたという事実だけで、知らず知らず血の巡りが良くなったのだ。

けれど、それだけだ。

それだけで私は廊下を歩く彼を目で追い、部活の帰りに後輩と肩を叩き合うのを注視し、挨拶をされれば全身が火照る、そんな身体になった。

恋とは、愛とは、そんな偉人たちやネット上の他人の言葉を辿り、自分に当て嵌め、すぐに打ち消す。なんと愚かな行為かと思う。なんと独り善がりな思いかと嘆く。それなのに私の身体は何一つ言うことを聞かずに、その姿や声に反応した。

どうも私は自分の気持ちに自信が持てなかったし、焦って恋モドキに陥っているだけなら相手にも申し訳ないと思っていた。


まあ、卒業して別の大学に入ってそれっきりの、なんの変哲もない話だ。彼がどうしているか、当時話した通り教師になったのか、私は何も知らない。今となっては知りたいともあまり思わない。

現在私は、友人と、彼女に紹介された男性と、食事をしている。食の趣味が合う、良い人だ。

「その時計、お似合いですね。どこで買われるんですか?」

社交辞令まっしぐらに聞こえる質問しか出来なかった。だがこれは、本当に純粋な好奇心だったんだ。

「父から譲ってもらったものなので、どこのものかは……あ、でもここにブランド名が……」

この人が時計を介してお父様のことを話すのを、私はただただもっと聞いていたいと思った。その姿を愛おしい、となんら照れも恥もなく感じた。

その時だった。目の前の男を愛おしく思いながらというのも不思議なことだが、不意に合点がいったのだ。ピースが嵌るように音を立てて。


あの頃、たぶん私は彼が好きだった。

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