じゃ、なくて

 昼前の講義が終わると、学食戦争に参戦する学生たちは慌ただしく講義室を出ていく。食にこだわりのない私はいつも残った麺類を適当に昼飯にチョイスするのでのんびりしたもので、騒々しい生徒たちの波が出口に殺到するのをぼんやり眺めながら、椅子ではなく机に腰掛けて脚をぶらぶら揺すって待つ。


「やっほ、沙弥華」


 戸口になだれ込む人の波をわざわざかき分けてやってきた一夏に「よ」と片手を挙げて応える。慣れたもので、しかも校内で有名な女好きと一緒に行動する機会が増えてからは隠す意味もなくなって、気安いキスをあっさり受け入れる。


「……一夏って、キスも上手いよな」


「慣れてますから」


「くそビッチ」


「さすがに泣いちゃう」


 セリフと表情が一致してない。ニコニコと微笑みを浮かべていた一夏が、ふと何かに気づいたように私の後方に視線をやった。なんじゃい、と振り返ると二メートルほどの距離を取って、ゆなが立っていた。


「………………」


「なに?」


 黙ったまま、けれど明確に私と一夏を注視してくるゆなに、なるべく平坦な声を心がけて問いかける。心臓の音が一段高くなって、心臓の上と下が同時にきゅっと萎むような感触を強引に無視する。


「……て」


「は、なに?」


「やめて!」


 びくっと、思わず身を引きそうになる。ゆなが声を荒げるところなんて、初めて見たから。だからびっくりしただけ。それだけだ。ゆなの表情が泣き出す寸前みたいに引きつって、感情が決壊するのをギリギリで堪えているように見えたから、ではない。はず。


「あ、あたしのいるとこで、キスとか、そういうの、やめて欲しい」


「……貴女には関係ないでしょう?」


 私の代わりに、一夏が答える。その声音が思いの外冷ややかで、先程の自分の振る舞いを棚に上げて、もう少し優しくしてやれよ、なんて思った。その直後、私も同類だろう、と久しぶりの自己嫌悪が降って湧く。


「つか、これが見たかったんでしょ。ゆなの大好きな百合じゃん。ゆなが言うように私は彼女を作って、ゆなはいつでも私と一夏を観察できる。ずっとゆながしたがってたことでしょ」


 そうだ。どうして私が罪悪感を感じる必要がある? だって今の私と、一夏と、ゆなの距離感はゆな自身が常々切望していた状況そのままのはずだ。

 ゆなが手に入らないなら、いっそ彼女の思い通りになってしまえばいい。それで私もいつかはこの気持ちを摩耗させて、私達はただの他人に戻っていく。そのはずだったのに。


 なんでそんな、辛そうな目で、私を見るの?


「違うの……違ったの。こんなの……私が見たかったのは、こんなのじゃ、なかった」


 ゆなが一歩、こちらへ踏み出す。テーブルに座ったままの私は咄嗟に後ずさることもできず、わざわざ立ち上がって逃げ出すのも、意識しているみたいで――事実その通りなのだけど――そのまま縫い留められたように動けない。隣に立つ一夏も、すっと目を細めただけで、口を開くこともしなかった。


 ゆっくりと、ゆなが近づいてくる。


 私も一夏も動かず、阻まないから、必然的に距離は縮まる。話をするには少し遠かった二メートルの距離が、ある程度適切な一メートル前後に。けれどゆなはそこで足を止めず、ゆっくりと、けれど迷いなくこちらへ向かってくる。


 まさか、なんて言葉が脳裏をかすめて、あり得ないと否定する。けれどゆなの真剣な瞳は一夏など眼中にないようで、紛れもなく私一人だけを見据えていて。


「……んっ」


「――――」


 少しカサついた熱い唇が、私の唇に重なる。


 突き飛ばせば、拒んでしまえばいいのに。あるいは、自分の心に従うのなら受け入れて、求めてしまえばいいのに。どちらもできず、私はただ、ゆなの熱い息を吹き込まれて、彼女が真っ赤になった顔を離すまでまばたきも忘れて凝視するしかできなかった。


「……なに、すんのさ」


 なにってキスじゃん。絞り出した自分の言葉に、胸の内で自分が呆れる。


「これ、だったの」


「は?」


「あたしが見たかったのは、これだったって、気づいたの」


 ゆなの震える唇から溢れる言葉に、知らず吸い寄せられるように息を詰めて耳を傾けてしまう。


「意味、わかんないよね。あたしもわかんなくて、あの時二人がキスしてんの見て、頭ぐちゃぐちゃで逃げ出しちゃって、それからもずっと二人のこと、目で追ってて」


 これでいいはずなのに、これが見たかったはずなのに、すっごく尊いはずなのに、見れば見るほど苦しくて。


 そんなゆなの言葉を、私と一夏は黙って聞いている。何を言われるのか、きっと予感していながら私達のどちらもそれを遮らない。一夏はきっと、それならそれでいいと思っている。私はきっと、そうだったらいいと思っているから。


「それでやっとわかった。あたしが見たかったのは、さーやちゃんと誰かの百合じゃなくて」


 じゃ、なくて。


「さーやちゃんとあたし、だったんだって、わかったの……」


「…………」


「…………」


 三人揃って黙り込む。誰が何を言うのが適切なのか、わからなかった。


「そっか」


 沈黙を破ったのは、一夏だった。


「それで?」


「え……」


 淡白な問いにゆなが初めて一夏を正面から見た。


「それを私達に言って、どうなるのかしら。貴女が不愉快だから、私達はキスしちゃいけないの? 何の権利があって、貴女にそんなことを言われなきゃいけないのかしら」

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