第22話 今日もどこかで

 桃栗三年柿八年って言うじゃないですか。

 夕暮れの帰り道で、アスファルトを踏みしめながら歩いていたら、突然そんな言葉が後ろから聞こえてくる。私は咄嗟に私の飲んでいる缶ジュースのラベルを見たが、そこには桃も栗も柿も含まれてはいなかった。純度100%濃縮還元のリンゴジュースだった。自動販売機で買ったばかりだったから、中身はまだ沢山入っている。一瞬だけだが、溢さないか心配になった。

「何よ、突然に。」

私は後ろにいる声の主に振り返る。

 ほんの少し雲の多くなった空を抜けて、築何年かわからないアパートを横目に滑らせ、駐車場の看板を無視する。

 黒髪が見える。少し焼けた肌が見える。そして、赤い眼鏡が見える。その赤縁を通過して、ようやく、対象と目線を合わせる。

 柿八年と言った少女は、その苗字にも柿を実らせていた。

 「先輩。さては、私に対して、ちょっと失礼なことを考えていませんか」

 「考えていませんわ。おほほ」

 「取ってつけたようなお嬢様言葉はやめてください。というか、それ本当にお嬢様言葉ですか。おほほ言葉じゃないんですか」

 はぐらかそうとしてもその眼光は鋭い。レーザービームというよりは赤外線センサーのようだ。きっと不審なものを見るとすぐに彼女の脳中枢の司令室に警報が鳴るのだろう。油断大敵である。

 「何よ、おほほ言葉って」

 「おほほ、と言って大事なことを考えないようにする魔法の呪文です。三文字で事足ります。類似としてわはは、うふふ、などがあります。おほほと合わせて、はぐらかしの三銃士です。デュマはどう思うでしょうね」

 「知らないわよ。デュマに聞いたらいいんじゃないの」

 「デュマは面倒くさいと思うでしょうね。私たちの中で共有された言葉のために、墓場から蘇る必要が生まれるのですから、その労力は計り知れないでしょう。勝手にやってろと言って二度寝しますよ。誰だって睡魔には勝てません。三銃士という繋がりだけで呼ばれるのですから、輪をかけて面倒くさいと思いますよ」

 「貴方が、最初に始めたんじゃない。はぐらかし三銃士を」

 「はぐらかしそのものは先輩が先ですよ。さらに戻って、おほほ言葉に原点回帰しましょうか」

 「回り回って帰ってきてしまうのね」

 「先輩も私も人の子ですから、お家に帰るのが定めなのでしょうよ」

 「ぐるぐる回して、そのままうやむやにしようと思っていたのに、柿原さんは一言にすごい神経質なのね」

 「先輩も人のことは言えませんよ。三銃士に引っかかりましたから」

 「引っ掛かったかもしれない。多分引っかかった。よし、引っかかったことにする」

 そして私は、ようやく本題に戻るのである。エンジンは暖まった。私はようやく後輩に向き直る。振り返ったままだと首が疲れるのだ。

 「それで、桃栗三年よりも柿八年が重要なのかしら」

 そう尋ねると、後輩である柿原ユウコは首を横に振った。

 「いえ。桃の三年も、栗の三年も、柿の八年と同じように大事です」

 後輩から投げかけられるその眼光は、何か新しいものを見つけたような輝きを秘めていた。私は視線でその真意を問う。

 後輩は視線でのメッセージを拾ったのか、コクリとうなづいた。

 「柿の八年と同じくらいの時間が、桃の三年にも、栗の三年にも流れていると思うのです。目に見える時間ではなく、体感する時間と言いましょうか」

 なるほどそうか、と私は思った。そしてなんだか心が軽くなる答えだと思った。

 「人の生きる時間も、そうだったらいいのにね。ただ、人は桃とか栗とか柿みたいに目で見てわかるわけじゃないからね。どのくらいかかるかなんて、本当は人の数だけ違うのかもしれない」

 後輩はその言葉にうなづいた。

 そして何事か言おうと口を開いたその時、それを遮って発される言葉があった。

 「それは、もしかしたら星の時間も同じなのかもしれない。機が熟すと言うからね。どの星に変わり、どのように終わるか。そしてどのように元素を生み続けるか。深い命題だと思うんだ」

 ふと空耳でルート合流のアナウンスが聞こえる。あれはもう無くなったはずなのに、それでも丸一年も過ごしていれば、頭の底に残ってしまうのか。目の前の分かれ道から、見知った少女がもう一人、現れる。

 「先輩。私も、同じようなことを、私なりに言おうとしたんですよ」

 後ろを歩く後輩が不機嫌そうに言った。

 それを聞くと、目の前の髪の長い同輩は、いや、すまないと軽く謝ると、私と、後輩が通り過ぎるのを見送ってから、その後ろについてくる。後輩はため息をついて、わかりました、と言った。

 しばらく歩いていると、右目の視界にススキの原っぱが見える。秋の情景そのものだ。

 「昔といっても一年前ですけれど、私たちは、こうして歩かずにコンベアーに乗っていたんですよね。特に理由もなかったのに」

 「そうだね。それは奇妙なことだった」

 私の背後から二つの声が聞こえる。過去からの呼び声のような言葉が、私の背中に当たってくる。

 「習慣なのかな。こうやって続けてしまうのは、私たちの習慣になってしまったのかな。好きでなくても続けてしまった罰なのかな」

 誰にいうわけでもなく、私はそうアスファルトに向かって言葉を溢した。

 「私には、わからないよ。今すぐ変えるのが良いことなのか。あのことを忘れ去ってしまうことが悪いことなのか。私たちの体が覚えたがっているのかもしれない。カナコ、君が変に背負い込む必要はないよ。私だって迷うのさ」

 「先輩だけじゃなくて、みんな今は迷っているんですよ。迷路の出口を探しているんです。流されるだけじゃない方法としての歩き方を、ようやくわかってきた頃合いなんですよ。きっと、そうなんです。私もまだ慣れません。変わってしまった今が当たり前なのか、それともおかしいのか、私にもわかりません」

 そう言うと、後輩は私を目の前をすたすたと追い抜いてゆく。そうしてススキの原っぱの前に、私は彼女の姿を見てとった。

 「でも、きっと誇りに思える選択だったはずです。私たちはこうやって、今生きているんですから」

 赤渕眼鏡の奥で瞳を輝かせて、後輩は笑う。

 まだ夏服を着ながら、彼女はこの秋のススキの野原に調和している。不思議だと思った。不思議で綺麗だと思った。

 

 ふと、涼しい風が頬を撫でる。

 風に乗って、子供の声が聞こえてくる。

 

「止まれ止まれ、赤蜻蛉」

とおまれ、とおまれ、あかとんぼ。

 聞いたことのない歌詞と、聞いたことのない歌の回し方。

 その声は、ススキの野原の向こうからするらしく、後輩は驚いて振り返った。

 後輩はススキの野原の近くに近づいてゆくが、何故かはたと立ち止まった。

 

 ススキの野原には。その夕陽に光る金色の野原には、少年が、くるくると踊り、ススキをかき回しながら、一人で笑っている。空を飛ぶ蜻蛉を捕まえようとしているのか、それともただじゃれ合っているのか。蜻蛉たちは自分たちを見ながら目まぐるしく動くこの存在を怪訝に思っているのか、それとも愛おしく思っているのか、一定の距離をとっている。そこには、奪うものも、奪われるものもない。対等とは言えないかも知れないが、金色の小さな楽園が作られていた。ライオンの尻尾がススキの野原の中に、ゆらゆらと揺れている。私と夏のある日に、一緒に買った茶色のシャツが、ススキを揺らす風と一緒にはためいている。

 あの子は今日も元気に生きている。


 そんな姿を見ながら、私はうっとりしていたが、ふと、そばに立っていた同輩がうーむと険しい顔をしていることに気がつく。

 

「ハナエ。どうかしたの?」

「いや、ちょっと。この場所は果たして良いのだろうかと思ってね」

 ハナエの顔に小さな不安があることに私は気づいていた。

 そしてその不安の正体を探ろうと、周囲を見渡して、それをすぐに見つけた。なぜなら、その立て看板は、私が駐車場のそれと勘違いした看板だったからだ。


 後輩は叫び、ライオンの少年はそれに大きく驚いた。


 「レオくーん!ここ!私有地!!」


 まるで遊泳禁止のプールで泳いでいたことを咎められたように、ススキの野原を掻き分けて、ライオンの子どもは私たちの方に向かってくる。


 赤蜻蛉はまだ遊び足りないとでも言うように、低い空を飛んでいたが、レオくんの両足がアスファルトを踏みしめると、見届けたかのように上空に舞い上がって飛び去るのだった。


 「赤蜻蛉は僕と遊んで満足したかなあ」


 帰り道で、私有地に入らないと堅く約束したレオくんは、私に向かってそう問うてきた。夕陽が赤く沈んでゆき、藍色の空が夜を連れてこようとしている。

 あの春と夏を越えたというのに、あの大事件を起こしたというのに、世界を一度塗り替えたというのに、主犯格であるはずの私は、ただのんびりと暮らしているのである。どれだけの魂が、救われなかったのだろう。ふと、あの赤蜻蛉を見ていると思い出してしまう。


 「レオくんは、赤蜻蛉がまた遊びたいとやってきたら、会いたいと思う?」


 「うん」

 

 ライオンの子どもはうなづいて、まだ日の沈みきらない空を見上げた。


 飛行機の光のように見えたそれは、どうやら一番星らしかった。

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