第18話 はじまりの海
ハナエはテレビの画面を点ける。私が殴ったことでヒビが入り歪んだテレビだ。そこにはあの西区の状況が、ありありと映されている。
「ここがソドムで、あっちがゴモラ。似たり寄ったりだったのさ。ソドムに王子様が降りてこなかったら、多分ここに、黒い蠍はやってきた」
蠍。
あの黒々とした体躯はどういうわけか、今では見る影もない。
「膨張しているの」
「恐らくは」
ユウコが不安そうに問い、シリウスさんが答える。黒い蠍は昨日の夜、あの後一時間は暴れたらしい。戦闘ヘリが相手をしても、三機のうち二機が大破。残りの一機は帰投に成功するので精一杯だった。そして夜の十二時になると、天を指すようにその尻尾を上げて、それから急に糸が切れたように動かなくなった。
「膨張が始まったのは太陽が登ってからだ。その体積は増えつつある。しかし、内部の分析はできない」
ハナエはテレビの前に一人立って、リポーターのように解説している。
「みんなの携帯端末に膨張する蠍のデータを送った」
「ねぇ、ハナエ先輩」
「何だい」
「一体どこまで調べたんですか」
「出来る限り、全部」
「流石に呆れますよ。ちょっとは手伝わせてくださいよ」
「私が私の処理キャパシティーを九割ほど使ったのがそんなにいけない?」
「八割でいいですよ」
泣き疲れたレオくんは私の膝の上で寝ている。ライオンの耳と赤い外套はそのままで、まるでコスプレをする子どもみたいだ。その寝息を聞きながら、私はハナエから送られたデータに目を奪われていた。
それは現代科学で行える赤外線などの非接触かつ非破壊内部測定をいくつも行った結果だった。あの帰投した戦闘ヘリがなければ入手できなかったデータだ。
結果は、ブランク。
何も存在しないということだった。
「どういう、こと」
「そのままだ。何にもない。いや、ほんとはあるのかもしれないね。膨らんでるし」
映像の中で黒蠍は一つの頂点を持った円錐のようになっている。胴体が肥大化した歪な体躯。いや、天を目指すその姿は塔のようだと言うべきか。
「私が調べたのは、これだけじゃないんだ。この街そのものについても、調べた」
ハナエは新しいデータを送信してくる。
地域史。この街の歴史だ。東の町と西の町は元は一つだった。だけど陸橋で分断された。それは今からたった五年前らしい。最後の記録。最古の記録。
「それ以降の記録は、どこにもなかった。これにはシリウス翁の尽力あってこそだ」
「私はこの街に三年前に来た。おかしいとは思ったが、そういうものだと順応するしかなかった。さもなければ、『ノケモノ』とされる。私はその歪みにただ耐えていた。涙を流すことでね。全焼の生贄は不要となったこの時代に、我々のために、我々の目の前で罪のない子が犠牲になる。そうすることで人間が救われようとする。そんなことは間違っている。その怒りをどこに向けようとも、意味はなかった。だから私は『バケモノ』になっても何もできなかった。怒りに震えながらも、何をして良いのか全くわからなかったのだ。私は足を撃たれて、このまま死んでも良いと思っていたけれどレオくんが止めてくれた。私は弱いだけだった」
シリウスさんはハナエが四つ折りにしたコピー用紙を見る。その中には「ノケモノ会議」の犠牲者と「バケモノ」発生の絡繰が示されていた。「ノケモノ」になった存在は「バケモノ」に変身させられる。獣人委員会は「バケモノ」となった彼らを掃討していた。獣人委員会の使用する近代兵器は「バケモノ」をそのまま殺傷する。シリウスさんは私とレオくんが図書館を訪れたあの日の夜、「ノケモノ会議」の被害者になった。包帯が巻かれたままの左脚はまだ癒えていない。
ハナエは私の方を見る。
いや、私ではない。寝入っているレオくんを見ている。
「カナコ。悪いんだけど、君の弟を起こして欲しい。どうしても、聞きたいことがあるんだ」
私はレオくんを見やる。その前髪を撫でてやる。すると、待ちかねていたように、その目蓋はうっすらと、しかしゆっくりと開かれる。
「レオくん、体はいいの」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。戦うのは無理だけどね。お話くらいは出来るよ」
「そう」
よかった。
ハナエはレオくんに寄る。そして頭を下げた。
「すまない。ライオン紋の王子様。国民の咎を君一人に負わせてしまった」
レオくんはゆっくりと、でもしっかりとした声で答える。
「良いのです。時はもう直ぐ満ちます。僕はそれをなんとか止めようとしたけど、ダメでした」
「先代の真似事をしてはならんと、言ったはずだ」
「ごめんなさい。シリウスさん。でも揺らぎに懸けてみて、よかったです」
シリウスさんはレオくんのその目を見ると、にっこりと笑った。そして私の方を見ると、その小さく青い目で見据えてくる。私はうなずく。
「ゆめ、忘れるな」
「はい」
私たちの間にはもう言葉さえ、本当は要らなかった。
「質問があるの」
質問を投げかけるのはユウコだった。
「はい」
ライオン紋の王子様は答える。
「『ノケモノ会議』って何?」
レオくんは私の顔を見る。ライオンの耳がひこひこと動く。私はうなずく。レオくんは何も言わないで、ユウコの方を見る。
「『ノケモノ会議』は、はじめは違う名前でした。はじまりの海に浮かび、調停の王が、その主権を担い、補佐に九人の判官がいました。しかしある日、狼の皮を被った人々がやってきて、王様を引き摺り下ろしてしまい、残りの判官まで殺してしまいました。そうして彼らははじまりの海を汚してでも、そこに居座ったのです。」
「はじまりの海?」
「ええ。星のない、分かたれざるはじまり。もう直ぐやってくるはじまりです。」
「私たちの携帯端末にある『ノケモノ会議』はアプリケーションのはずよ。ソフトウェア。人が架空から作った架空のもの。」
「でもそれは違った。そうだろう、ユウコ」
ハナエの声にユウコはうなづく。
「ええ。だって人の手で作られてすらいないもの。痕跡がないの。」
端末に新たなデータが送られてくる。
それは『ノケモノ会議』のソフトを解析した結果であった。
何もなかった。プロパティにも、ソースコードすら何も無かった。
「私たちはよくわからないものでも、その仕組みも考えないで使ってしまう。ソースコードを調べるという簡単なことをすれば、この異常性に気づいたはずだ。しかし、気づいた者はこの街にはいられない。『ノケモノ会議』はそれを許さない。ルールからの逸脱を、ね」
「ねえ、レオくん。私たちが使っていたものって何なのかしら」
「それは、あなた方の世界の言葉で言えば、『魔法』です。あのヒトたちが自分勝手に奪い取った『魔法』なのです。だから汚れてしまいました」
「僕はあれを、僕の先生、『王様』の手に取り戻すために、ここに来たんです。先生は今深い森の中でお休みなので、僕が代わりに来ました」
「ありがとう、王子様。答えてくれて」
ユウコは、そう言った。
私はレオくんの頭を撫でる。
レオくんは私の顔を見る。
「じゃあ、今度は私の番ね」
ライオンの紋の王子様は太陽のように笑って見せた。
その直後、液晶に映る黒蠍は爆音と共に破裂する。
真っ黒なはじまりの海は、西の町だけでなく、東の町までを一瞬で包み込む。
星のない、漆黒が全てを包んだ。
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