第17話 あたらしい星座のつくりかた

 陽だまりのような暖かさを感じて、もしや私は死んだのではないかとなんとなく思う。私はイメージとして死というものは暗く冷たいものではないと考えている。生物として体温が低下し、血流が滞り臓器機能が停止していくことももちろん死ではある。だがそれは肉体面での話だ。生物としての死と、人が心に思い描く死の理想は別物だと思う。人間には想像力がある。それは冷たい現実に抗うためにこそ発揮される。そういうものだと思う。


 柔らかいものが、頬に当たっている。風だろうか。音が聞こえる。規則的に吹かれる笛のような、穏やかな音。匂いがする。お日様に当てて干した時の洗濯物のような、希望に満ちた香ばしい匂い。私は頬に当たるものが、規則的に私の鼻の先から耳の側まで往復していることに気づく。


「生きてる」


 感触がする。暖かいものを暖かいと認識できる。嬉しいというよりも、安心する。私は頬を往復するものが毛束であることにようやく気づく。そして、ゆっくりと目を開いた。


「レオくん」


 私は私の部屋のベッドに寝かされていた。世界にはもうすっかり太陽が昇っている。まるで昨日のことが奇妙な夢のようだ。

 目の前で、私の腕に抱かれたままで、男の子は眠っている。ライオンの耳も、赤い外套も羽織ったまま。痣だらけの足を折り畳んで、傷だらけの腕で私の首に手を回している。

 ライオンの尻尾が私の頬を撫でる。その度に、毛束の一、二本が私の頬に残る。赤く体に浮かぶ痣は一見するとタトゥーのようで、胸の真ん中から放射状に広がっている。真っ赤な、それでいて小さな茨。オレンジジュースを溢したり、汗が流れる度にびくりと震えていたことを思い出す。レオくんは目を瞑って、まるで叱られた時のように、何かに怯えてそれでもじっと耐えていたのだ。自分が痛めつけられることに、何の躊躇もない。それどころかきっと彼は、その痛みすら誇りに思うだろう。まだまだ幼い体で、支えきれない私たちの願いを背負っている。


「いいの。いいのよ、レオくん。背負わなくっていいの。あなたにみんな押し付けちゃって、ごめんね」


 私の腕は、意識を失ってもまだ彼を包んでいた。寝ている間に少し力が抜けたのか。その抱擁は緩いものになっている。私はレオくんの体を私にさらに近づける。レオくんをきつく抱きしめる。かわいい、勇敢な私のライオン。ただ一人の、不思議な男の子。私は義理でもお姉ちゃんなのだ。この子を離すものか。絶対に。たとえ君がどんなに強くても、どんなに簡単に世界を救うことができても、きみの命で贖われた世界に、私は住もうとは思わない。両腕から剣山の無数の針で刺されたような痛みが伝わってくる。彼を抱きとめたあの時に、腕が焼けるような感触はあった。ひどい火傷が完治せずに残っているのだろうか。それでもいい。私はレオくんを抱きとめることができた。残酷な運命の谷底に落ちないように、助けることができた。私にも出来ることはあったのだ。自然と体に力が入る。


「くる、しい」

「あっ、ごめんね」


 レオくんは意識が戻ったのか、そう私に訴えるとゲホゲホと咳をした。レオくんの目尻には涙が滲む。レオくんは私の胸に真っ赤な痰を吐く。瞳が開かれ、金色の虹彩が私の眼を見つめる。怯えたような瞳。重力を背負いすぎて、壊れかけた星の光。私は彼の頭を撫でてやる。愛おしい。この命は愛おしいのだ。


「ごめんなさい」

「いいのよ、レオくん。こわい時はこわいって、辛いときは辛いって言うの。みんなそうやって生きているの。大丈夫。きっと大丈夫。お姉ちゃんが付いてるよ」


 ライオンの男の子は最初こそ挫けまいと意固地になっていたが、ずっと撫でさすっているうちにその我慢もだんだん限界を見せてくる。肩が震え、瞳は潤み、首筋に回した腕には力が篭る。ライオンの紋の王子様が大声で泣き始めるのには、長い時間は要らなかった。


 何もできないと思っていた。眼を伏せているだけで、眩しいものには眼を細めているだけで、そうやって世界を救う存在に任せていれば、世界は丸く収まるものだと思っていた。

 でも違う。救われる命があれば、救われない命がある。救われない命のために、命を捧げようとする命がある。世界に特別な存在なんていない。夜空に輝く星々のように、どれも輝いて、どれも等しく貴重なものだ。


 それに、光の強さに関係なく、昔の賢人は星座を作ったのだ。たくさんの星座で何もない天を覆い、大きな物語にするために。でもちょっと配慮が足りない。適当に星を繋いだだけじゃ、余り物ができてしまう。余り物は余り物で星座を作ったけど、そこに物語は作られていない。レオくんはお話のないそんな小さなライオンに、物語をあげるといつか話していた。私はそれを応援するけど、応援するにも限りがあるし、こうなってしまっては応援すらできない。自分の身の丈に合わないことを無理にでも為そうをすると、自分の体のことを考えなくなってしまう。まずはそのことをちゃんと教えてあげなくてはいけない。そして、それを強要する世界には、もうレオくんを任せていられない。


「この世界がきみの生きやすいものに変わるまで、私がきみを守ってあげる」


「違うぞ、カナコ。『私たち』だ」


 ドアが開く。

 一人、部屋に入ってくる。

 決意に満ちて私が呟いた言葉に、聞き覚えのある声で返答があった。


「ハナエ」

 不意に声が出る。

 私が一人で背負うものだと思っていた。

 それに間髪入れずに否を突きつけられたのだ。せっかくの決意がちょっと挫けてしまう。


 もう一人、部屋に入ってくる。

「おはようございます。先輩、それにレオくんも」

「ユウコ」

 振り返ることはできない。今大声で泣いているレオくんを変に刺激したくない。後輩の声は昨日よりは元気を取り戻していた。ハナエが変えたのだろうか。


 そしてもう一人、私の部屋に重い足取りで入ってくる音がする。この人は、纏う雰囲気でわかる。吐く息でわかる。そこにいるだけで、世界をゆっくりと変質させて可能性を与える。

 賢人とは、そういう人だ。

 松葉杖の音でもしっかり分かるのだが、それでは何とも味気ない。


「ミスター・シリウス!」

「おや、バレてしまいましたか」


 柔らかい笑い声が、背中から聞こえる。


「さぁ、みんなで反撃を始めるよ」

 ハナエは、そう宣言した。

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