第11話 暗夜狼咆 後編
足元の床が全て抜け落ちて、その暗闇へ、死の匂いに満ちた冥府へ落ちてゆくだけなのだと、初対面の誰かに、唐突に宣告されたような気分。
突如包まれた暗闇と、バケモノの発する轟音とに、バーガーショップは唐突に揺さぶられた。店内にいた少なくない人々。仕事帰りのサラリーマン、子供連れの男女、私たちよりも数年幼そうな学生たち、杖を手放せないらしいおばあちゃん。それが一斉にどよめいて、各々が恐怖に駆られる。
みんな知っていても理解はしていなかった。していられるほど、余裕がなかった。バケモノが出現して、逃げるための頭の良い方法もきっと知っている。それでも自分が今からその当事者になるとは、誰も考えられるはずがないのだ。日常はあまりに目まぐるしく、それでいて残酷に私たちを振り回すから、ついてゆくだけで精一杯なのだ。
『避難。』
そう呼びかけるだけの携帯端末の言葉。非常用のライトが床に光っている。
『みなさん!どうか落ち着いてください!足元に気をつけて、一列に並んでください!』
ユウコの注文を一時間前に請け負っていたあのバーガーショップの店員は、それでもいつかの訓練を覚えていたのだろう。その顔が恐れで引きつっていても、ハキハキとした言葉に乱れはない。その言葉をしっかりと聞き、従おうとする人々は、広くない店内で次第に列を作ろうと先導する。泣く子供を宥め、騒ぐ大人を黙らせ、体の弱い親子や老人を先頭にして縦列が出来上がっていく。すごい統率力だと目を見張っていたら、そのうちの一人が声を発する。男だ。
「私たちは『獣人委員会』です!安心してください!」
暗闇の中でも、歓声が上がる。
四人か、五人。
男女が立ち上がってそうどよめく人々に、呼びかける。『獣人委員会』。私たちの街を予算で守るヒーローたち。傍目にはどれも一般人にしか見えないのに、彼らはその手腕でもって、プロフェッショナルを証明している。
列を外側から緩く統率してずれないように、問題がこれ以上起きないように細心の注意を払っている。『獣人委員会』がこの街の治安を守る際には、何も軍事用ヘリを飛ばしてバケモノと応戦するだけではない。街の人々を安全に避難させることはそれ以上に、彼らの大事な使命なのだ。私と柿原ユウコと、トイレから驚いて出てきたレオくんは彼らの先導に従った。レオくんは左胸に手を当てていて、何だか申し訳なさそうな顔をしている。ライオンバッジが眩しく光っているのだ。
周囲にいる大人から、眩しい、どうにかして消せと、時に穏やかに、時に高圧的に指摘される。レオくんはそれにただごめんなさいと謝るばかり。私は彼を抱き寄せて、その光を塞ごうとする。彼は悪くない。彼はライオン紋の王子様なのだから。傲慢に胸を張っていてもいいのに。
「そのバッジ、何で光っているんですか」
光に目を細めて、嫌らしそうに柿原ユウコは私に尋ねる。狭い通路で足が自由に動かせない。
「ひみつ」
私はバーガーショップを脱出するまで、その言葉を繰り返していた。
目の前に映画のスクリーンがあるんじゃないかと思った。ようやくバーガーショップを出た人々と、獣人委員会のメンバー、そして私たちは目の前の光景に絶句している。
バーガーショップはこの街の役所のすぐそばにあった。その役所の高い屋根には高く満月が照っており、その月光を隠すように、その「バケモノ」はいた。昨日のものよりもはるかに小さい。狼の頭蓋骨は変わらず、しかしその体躯は犬よりもひと回りも二回りも大きい。その骨格が月明かりに白く浮き出ている。標本のようだ。
人々が恐怖にどよめくよりも先に、獣人委員会は行動を始めていた。夜闇でも見えるゴーグルを着用し、実弾を込めた拳銃を「バケモノ」に向ける。街の人々とは一定の距離を開け、「バケモノ」を扇状に包囲している。言葉も、アイコンタクトさえもなく、まるでそこにそうあることが当然のように彼らは陣形を組んでいた。それがどんどん離れていくなかで、星座のようだと私は思った。
数分で500メートルはルートを移動した。小高い丘の上に私たちは避難する。赤いコンベアーはいつもよりも早い速度で流れ、私たちを連れて行く。丘を登っていると、夜空がだんだん近づいてくるように感じる。
バーガーショップに勤める従業員に先導されて私たちはその側を離れようとする。レオくんは、右手で輝くライオンバッジを握りしめて、もう片方で私の手を必死に握っている。堪えている。本当は戦いたいのだろう。私は彼がとんでもなく強いことを知っている。
私はレオくんに瞳で合図する。
(行けそう?)
レオくんは私のそのメッセージを受け取ると、頭を上下にぶんと振った。
ぽふん。
軽い音がして、並んでいた人々が何事かと驚く。そして彼の臀部に現れた不可思議に目を見張る。
尻尾だ。ライオン、ライオンの尻尾だ。悲鳴を上げる女性もいた。命の危険を感じるこの状況で、ライオンの尻尾を見たのだ。怖くないはずがない。
「ライオンよ!」
その叫び声に動いていたコンベアーは完全に止まる。
「先輩!何やってるんです!隠さなくちゃ!」
柿原ユウコはそう耳元で囁く。
「いいの」
「ダメです。無意味に人目を集めちゃだめです。」
「仕事です」
レオくんはそう元気いっぱいに声を発する。そうして私の手をどこからくるのかわからない、強い力で振り解いた。
「レオくん!」
私は咄嗟に声を上げる。
分かってはいたけれど、やっぱり良くないんじゃないか。そんな気の迷いが私を戸惑わせる。
「君、危ないよ」
大列から逸れようとするレオくんの肩を掴んだのは、私服を着た獣人委員会の男だった。
レオくんは彼の目を見て、そうして右手をライオンバッジから取り除ける。獣人委員会の男はその輝きに眩しそうに手を離す、
「先輩、レオくんを連れ戻しに、なぜ行かないんですか」
柿原ユウコは強い声で私をなじる。
「いいから。今から起こることをじっと見ていて」
「先輩は気がおかしくなったんですか。なったんですよね。どうして、何が先輩をそこまでさせるんですか」
レオくんが深呼吸をするように息を吸うと、ライオンバッジは彼の胸から離れ、中空に輝きながら舞い上がると、閃光を放って砕け散る。
「ユウコさん。私はね、奇跡を見てしまったの」
私は夢見るように呟いた。
『獅子心臓に懸けて!』
目の前で閃光が弾け、散り、収束する様は花火のようで、私はなぜ最初は怖がらなかったのだろうと思う。光の中から赤い外套に身を包んだライオン紋の王子様が登場すると、目の前にいた男は中腰の体勢でただ呆然としている。
「なんなの、あの子」
柿原ユウコは変身の一部始終を見届けると、そう口にした。
「絵本があるでしょ。ライオン紋の王子様。彼、きっとあの中からうっかり飛び出してきちゃったのよ」
ライオン紋の王子様は坂道の上でぴょんと跳ねる。全身が眩い橙色に光り、外套は翼のように広がり、ライオンの尻尾はぴんと張り詰めている。彼ががおうと吠える。突然、彼の体が光の中で掻き消えて、光の珠のようになる。光の珠は迷いなく天空に浮かび上がると、まるで流れ星のように私たちの元来た道を、空を飛んで逆行してゆく。それは一瞬のように早く、遠ざかってしまうことがなんだか切ない。
そうして役所のあたりで消えたと思ったらまたすぐに強い閃光が天空に浮かび上がる。ライオン紋の王子様は高らかに叫ぶと、その白い槍を手に取った。
「『断罪のツメ』!」
星が地に落ちてきたような閃光が辺りを包む。少し遠いこの丘も例外ではない。私はその閃光を見るのは二度目なのに、その眩しさに目を瞑ってしまう。
目を開けたときには閃光は既に収まり、流れ星がこちらに向かって流れてくる。
天空でぴたりと動きを止めて、そうして地面に着くまではゆっくりと、ライオン紋の王子様は帰ってきた。
「任務完了です!」
ライオンの耳はぴんと立ち、ライオンの尻尾は元気よく振れている。赤い外套には汚れひとつなく、全身は輝いている。
獣人委員会の男は通信内容に驚いて、ライオン紋の王子様を見やる。
「きみが、「バケモノ」を倒したのか。誰も、何一つ傷付けず、銃弾三つしか撃たせずに。」
ライオン紋の王子様は傲慢に鼻を鳴らすこともなく、子供らしく恥ずかしがることもなく、ただ勇敢に男を見つめていた。
茶色い目に、夜闇でも光る金色の虹彩。
「ヒーロー・イズバック」
柿原ユウコは夢見るように、そう呟いていた。人々の歓声が帰還したヒーローを包み込んだ。
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