第10話 暗夜狼咆 前編

 私たちが席に着いた時、太陽は沈みかけていた。

 レオくんはお子様セットに不満なのか、小さなハンバーガーを早口で食べ終え、ブドウジュースを飲み干す。小さなハンバーガーは私たちのものより遥かに小さく、丸いパンの塊に見える。ジュースの紙パックの中にある氷をガリガリと噛んでいたが、思い出したように飛び出すと男性トイレのある所に走って行った。


 「何か悪いことしちゃいましたかね」

 「多分。でも深入りしないほうがいいと思うよ」


 少年の心情は私にはよくわからないのだ。

 ビックサイズのハンバーガーは私の顎の開く限界よりも少し大きい。上のパンズを食べようとすると下のパンズが残り、かと言って真ん中のビーフパティを頬張ればバランスが崩れてしまう。綺麗に食べようと最初は意気込んでいたのに、食べていくうちにハンバーガーの形はどんどん歪になってゆく。頬にはケチャップの感触がある。


 「うまく食べられる方法があればいいのに。」


 ステーキとか、フランス料理とかはナイフとフォークを巧みに使って何一つ汚すことがない。大人になるためには、そういう綺麗で冴えたやり方を学ばなければならない。私はそう思案した。向かいの席に座る後輩ユウコはまるで獣のような食欲に身を任せていた。上着を脱ぎ、Tシャツ姿になった彼女は周りの視線なんてお構いなしに、でかいハンバーガーに負けないくらいでかい口を開けて、小柄でも果敢に挑んでゆく。そうして肉の味を堪能しつつ、その胃袋に納めてゆく。


 「先輩は頭が硬いんですよ。ルールなんて後から勝手にできていくんですから。私たちは言わば未開拓の土地を切り開くパイオニアですよ。未来なんです。」


 未来。

 そんな言葉を目の前で、人の口から聞いたのは久しぶりだ。希望と同じくらい何度も何度も歌われているのに、私はそれを「ミライ」という信号の羅列のようにしか認識できない。


 「未来って何だろうね」


 私は下のパンズがなくなったハンバーガーの、その最後の一欠片を口に放り込む。指を見ると赤いケチャップで汚れていた。私はナプキンでそれを拭き取る。


「あっ、勿体ないです。」

「勿体ないとは何よ。汚れちゃったんだから拭くのが道理でしょ。」


 拭かないと不潔だ。


 「先輩。未来は上から降ってくるんじゃないんです。下からだんだん競り上がってくるものなんですよ。先輩はそれを分かってないんです。指についたケチャップは拭き取ってやるんじゃなくてきちんと舌で舐めとる。それが流儀です。」


 黄色く長いポテトを教鞭みたいにして、後輩は私に説教を垂れる。彼女の口の端にケチャップがほんの少し残っている。ケチャップが未来だと言うなら、彼女の端に残っているものも未来じゃないか。そんなものが未来なわけない。私は少しからかってやることにした。

 

 「ほれ、口元に未来が付いてる。」


 そういうと、後輩はすこしムッとした顔つきで、


「ありがとうございます」


 と言って舌を出し、ケチャップを舐めとろうとする。ケチャップは左端にあるのに、何故か唇の右端に舌は伸び、そうして時計回りをするようにして左端のケチャップを舐め取った。ケチャップはほんの少し、掠れたようにまだ残っている。

 私にはそれが、口元が切れて出てきた血の跡のように見えてしまう。


 「まだ残ってるから拭いてあげよっか」

 「いいです。私にはこのポテトがありますから」


 柿原ユウコは私の助言も聞かずに、ポテトをちょっと乱暴に自分の口元に擦り付ける。ポテトが通過すると口元にはケチャップは残っていなかった。代わりに塩が油とともにキラキラと輝いている。あんまり綺麗じゃない。


 「綺麗にやろうだなんて、どうしてそんなに構えているんです?私たちの時代は今を生きています。化石みたいに土の中で待ってはくれませんよ。」


 柿原ユウコは例えのセンスが独特だった。もしかしたら彼女がこれまでの人生で見てきた演劇や映画、ドラマやアニメにその形跡があるのかもしれない。彼女はかつて作られた過去を見て、同時に今を見据えている。


 「どれも大人たちによって作られた虚構でしょ」

 ふと声が出る。出すはずじゃなかった声は、柿原ユウコの逆鱗に触れた。沸点が一瞬で達するタイプだったかと、気づいた時には遅かった。


 「虚構なんかじゃありません!あれらが作られた時はあれが正しく未来だったんです!私たちが。いいえ。現実に生きた私たちが、真実を嘘にしてしまった。私たちは、十年前に見た夢を掴めなかったんです!!」


 両手をバネにバンと立ち上がった彼女はぶんぶんと首を横に振る。その姿は子どものようで。しかし私はそれを諫めることができない。私も幼い頃に夢を見ていた。魔法使いに変身する夢を。世界はそれを叶えるまで自由じゃなかった。けれど。レオくんは、私の目の前でライオン紋の王子様になった。あれがもしあの時限りの奇跡でも、私はそんな奇跡が起きる可能性を、はっきりと目にしてしまったのだ。


 「大丈夫だよ。ユウコ。まだ希望はある。私たちの中にあるんだよ。」


 項垂れるユウコにかける言葉が見つからなくて、私は咄嗟にレオくんの存在に縋ってしまう。あの子ならきっと、ここにいる柿原ユウコにこう言ってくれると思ったから。


 彼は今現在は男子トイレにいるみたいだけど。


 「根拠を。見せてください。」


 項垂れた赤縁眼鏡の奥から眼光は鋭く私を刺し貫く。根拠。彼女の世界を根底から覆すような根拠を、求められている。

 

 「南天先輩。私だって今すぐにでも、『ノケモノ会議』を発動できるんですよ。ハナエ先輩みたいに。」


 背中に嫌な汗が流れる。

 私は知らなかった。

 私の後輩がそこまで出来るような人間だったとは夢にさえ思わなかった。そこまで思い悩んでいるとは。彼女の思春期特有の、時間の流れに吹き飛ばされる悩みだと、どこかで思っていたのだ。

 私は恐れていた。私が彼女によって「ノケモノ会議」にかけられて「ノケモノ」にされる危機感からではない。誰かを「ノケモノ」にしてまで答えを欲しがる彼女の痛切さに、私の用意しているカードが通用するとは思えないのだ。私の抱えている希望が、ユウコが見たら路傍の石ころ程度のものでしかないかもしれない。

 でも。それでも私は逃げるわけにはいけなかった。ここで先輩が後輩の目の前から逃げてしまっては、何のために先輩をやっているのかわからなくなる。


 「いいよ。教えてあげる。」


 柿原ユウコは私の言葉を聞くとニヒルに笑った。


 「南天先輩。」


 ジャッジ。その言葉は一つの符号。

 私はそれに抗えないし、今度は私が問われるのだ。逃げるところなんてあるはずがない。

 「ノケモノ会議」が始まる。

 でも、私は逃げない。

 不安を抱える後輩を、見て見ぬ振りなんてするものか。


「ジャッ」


 その時だった。

 バーガーショップの明かりが一斉に切れたのだ。


『バケモノ出現』


 バーガーショップに集う無数の携帯端末から、機械的な女の音声が響いた。





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