第4話 エピローグ(かつプロローグ)

 ライオン紋の王子様という童話を知ったのはまだ私がこの街に来る前のこと。

 今では記憶もあやふやな子供の頃だった。

 

 私の目の前に広げられた絵本の中には赤い外套を着たライオンの騎士が武器を取り、大いなる闇と戦っていた。

 敵の固い甲羅を槍によって穿ち、闇に落ちた同胞を鎌によって裁き、大いなる闇に対して剣を持って立ち向かった。

 私はそれを御伽噺だと子供心にも信じていた。

 小さな私に絵本を通じて話してくれたその人が誰だったのか。

 その声は何を語っていたのか。

 私はもう覚えていない、


『土曜日。午前八時三十分 起床予定時間から三十分超過です』


 昨日のことは全て夢だったのだろうか。

 目覚めた私は自宅のベッドの上にいつものように寝ていた。見覚えのあるテレビ、見覚えのあるテーブル。

 あの波乱があっても変わらないものはあるのだ。

 携帯端末は普段通りに起動する。

 私のルートは青いままだ。


 テーブルの上には何も残されていなかった。

 ライオン尻尾の男の子が作った料理は私の食器ごとテーブルの上から消えてしまっている。あの夜の不思議な一幕は魔法使いの見せる幻だったのだろう。


 体温が普段より少し冷たい。

 起床したばかりだからか。


 エネルギーが足りず回らない頭と体を何とか動かして、私は上半身をベッドから起こす。


「あれ。」


 私はそこでようやく自分がワイシャツとズボンという奇抜な格好で寝ていることに気がついた。


 窓が開いており、そこから朝の光が室内に差し込んでいる。


 窓の向こうには人工芝の緑が広がっている。

 その上にはいったいどこから持ってきたのか。


 二つの大きな衝立に青いプラスチックの物干し竿が掛けられている。


 物干し竿にはもちろん洗濯物が掛かっている。


 私の制服のブレザーがびしょ濡れになって陽に当たっている。


 私は家で洗濯はしない。近所にコインランドリーとクリーニング店があるのだからそこに任せている。


 物干し竿には他にも白いタオルやら赤茶色の革靴やらが無遠慮に干してある。


 衝立より離れた位置に灰色に濁った水の張った桶と、洗濯板が見える。


 実物を見たのは初めてだ。


 制服や革靴を水洗いするなんて聞いたことがない。


 私はそんなことをした覚えはない。


 私はこれは夢だろうなと思った。

 たちの悪い幻想だろうなと。

 ベッドの上から周囲を眺めまわして、キッチンの上に昨日使った覚えがある食器と調理器具が棚に並べられて干されている。


 玄関のすぐ横にはトイレとバスルームが隣接している。トイレの電源はついていない。バスルームはどうやら使用中でシャワーの水流が床を打ちつける音が響いている。ピンクのカーテンはその奥の姿を見せてはくれない。


 カーテンから無造作に脱ぎ捨てられた服の一部がはみだしている。


 ベットからゆっくりと起き上がり物音を立てないようにまるで盗人のようにバスルームに向かう。


 ピンクのカーテンをあえてしゃがんで潜ると

 脱ぎ捨てられた服たちの全貌が明らかになる。


 白い子供服のシャツ。横縞の服。茶色の靴下。パンツは青のトランクス。臀部にボタンが縫い付けられた茶色いズボン。金色のライオンバッジ。


 バスルームの向こうの影はまだシャワーを浴びているらしい。人影に不釣り合いな長いライオンの尻尾。

 このまま風呂から出てくるまで待っていてやろうかとふと思う。しかし制服をまたクリーニングに出したりすることやそれに掛かる費用を考えるといてもたってもいられなくなる。私は突発的にバスルームの引き戸を押し開ける。


「ぎゃあああ!!」


 やはりバスルームにいたのはあの男の子だった。

 シャワーをつけたまま、腰が砕けたような格好でバスタブの縁に体を預けている。

 水に濡れたライオンの尻尾は怯えたように反り返り、運良く私はその秘所を見ずに済んだ。


「こら、レオくん!私の制服、水洗いしたでしょ!」


 私は家族に弟を持つ。そういうものには既に耐性があった。

 しかし男の子の方はそんなことが起こるとは全く考えてはいなかったらしい。

 人間の耳を真っ赤に染めている。

 誰だっていきなり闖入されればそうなる。

 風呂場とはそういうプライベート・ゾーンなのだ。

 たが、前提としてここは彼の家ではない。

 私の家なのだ。


「は、は。」


 この世では協調と妥協が大前提とされている。しかし私はそのラインを乗り越えてまで彼に接する必要を感じていた。


 それは子供らしい好奇心なのかもしれない。

 だって、私は尻尾の生えた彼に、この世界にある無限の可能性を見出しているのだから。


「破廉恥です!!!!!」


 私は愚かにも彼が反撃してこないだろうと思っていた。だから飛んできたケロヨンを額にモロに喰らう。


『起床確認。おはようございます』


 携帯端末からの応答がベッドから冷ややかに響いた。

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