第2話 ライオン尻尾の王子様


 ノケモノ会議。

 この街の不特定多数を集めて行われるそれは、この街になくてはならないものだ。警察もなく「バケモノ」という魑魅魍魎に怯えるこの街の住民には、十六歳を境にある特殊な能力が与えられる。私は二年前にこれを与えられた。

 ノケモノ会議への議決参加権だ。議決発動権というのも存在するがそれは特定の条件を達しなければ与えられない。

 バーチャルな異空間にて行われるこの会議はヒトと呼ばれる議員と召喚された人物によって成立する。議員の数は最低でも七人、最高で九人と定まっている。これは少人数による恣意的な議会成立を避けるためだ。多人数によって公平に公正に行われなければ、おそらくこの街は一月もしないうちに無人となり滅んでしまうだろう。

 ノケモノ会議では何を論じるのか。別にこの街の税金をどうするとか、この街の町長を辞めさせるとかについて語るわけではない。その実は残酷で陰湿なのだ。召喚された人物をその行動に即してこの街に留まらせるか追放するかを不特定多数で論じて決定する。

 召喚された人物には何一つ拒否権はなく、また発言してもその言葉が意味を持っているとは思われない。なぜなら、召喚された人物は多数のヒトによりヒトであるかそうでないかをまさに判別されるのだから、被召喚者の発する言葉のうちに、ヒトが理解できる言葉が発されていても、その言葉は信用できない。もしかしたらそれはただの動物の鳴き声かもしれないのだ。

 議員であるヒトたちはそれまでの状況証拠、たとえばその人の持つルートが何色をしているのか、その人の素行や学業成績、今の職業などを比較して見る。犯罪歴ももちろん公開されている。そうしてこの街にとって危険と判別すれば、そのヒト議員は議決を提出する。「毛深い」というコードが全議員で完全に一致する事態となれば、被召喚者は哀れにもこの街の「ノケモノ」となる。

 要領を得ないし馬鹿馬鹿しいから、私はそんなことをハナエから聞いても話半分にしか聞いていなかった。


「ノケモノ」とされた者がどのように追放されるのかもまるで夢物語のようにしか考えていなかった。


 私はあのノケモノ会議で何をしていただろう。他の6人のヒトたちは年齢も性別もバラバラなのに慣れきった様子で会議を進行していた。きっと大人とはあんなヒトたちのことを言うのだろう。あの中にはハナエももちろんいた筈だ。あの会議を発動したのは実は私ではない。私はハナエに急かされてその符号を叫んだだけで、実際にノケモノ会議の頂点にいたのはハナエその人だったのだから。

 ハナエはノケモノ会議の発動権を持つこの街で数少ない頭脳だ。成績優秀文武両道決断に長ける一方思慮深いと絶賛される彼女の性質には隙がない。私はなぜそんな彼女と友達になれたのだろう。


「お前が小動物みたいに見えたからだ」

 ハナエはいつか私の不安を込めた質問にそう答えた。そしていくら待ってもハナエはそれ以外の言葉を発さなかった。


 あの議会で私は狼狽えていただけだった。

 目の前に突如現れた子どもをノケモノ議会にかけて、きっとその正体不明だからという理由で…。

 いや、事実を歪めてはいけない。

 私はあの場の空気に押されていただけだった。ただ流されるままに、あの議決を承認し、そうしてあの子ども、柊レオを理由なく「ノケモノ」にした。

 罪悪感を感じないはずがない。

「毛深い」とは何なのだろう。

 柊レオが言い、ハナエと私も含めたヒト全員が言った言葉だ。

 あれに私はほんの少しどきりとした。

 私の核心を突かれたような恥ずかしい気持ちを惹起された。

 あれは、何故だろう。


『ルート合流地点です。速度変更はありません。』


 いや、もういい。

 みんな忘れよう。

 適度に忘れなければ日常すら生きてゆけない。

 会議もあの少年ももう過ぎたことで私の生活はこれまでもこれからも変化しない。彼らは私の生活に何一つ影響を与えない。

 だから、最初からいないものにしていい。

 なかったことにしてしまえばいい。


「ハナエ」

「おう。帰宅途中に寄り道しないのか。感心しないな。」


 合流してきたハナエはそう言うと私の後ろで立ち止まる。

 一体どこから合流していたのだろう。

 携帯端末を見ると数メートル前に既に合流地点が表示されている。

 私の青いルートとハナエの黄色いルート。

 合流しても緑にはならないルート。


「寄り道?」

「ほら、学校で言ってたじゃないか。この通りに新しくできた店の、ドーナツ。食べないのか。」


 ハナエは後ろから何やら紙袋を差し出してくる。受け取る。袋を開けた途端甘ったるい匂いが無遠慮に鼻をくすぐる。ほのかに香る花の匂い。


「ハニー味ばっかり。」

「私の趣味だ。お前が寄らないから買ってやったのさ。」


 袋の中にドーナツは五個ある。

 包み紙が五個分、袋の底に敷いてある。

 これで手を汚さずに食べられる。

 ドーナツは真円の中心に穴が開いている。周辺が盛り上がった形はどこか奇妙に感じる。

 中心から見たらきっと、壁に囲まれているように感じるはずだ。


「どうした。ドーナツ、嫌いだったのか。」

「いや、何でもないよ。」


 何故そう感じたのだろう。

 わからないけど、わからないままにしておこう。ドーナツは食べ物だ。

 食べれば、なくなる。


「甘い。」

「ドーナツは甘いさ。甘くなるように作られている。だから甘いんだ。」


 私の感想をハナエは笑った。

 いや甘い。とんでもなく甘い。

 花の香りがほんのりするが、それをかき消すくらいに、いや忘れてしまうくらいに甘い。

 頭にガツンとくる甘さだ。

 とても一息で食べ切れるものではない。

 というかこの甘さを5個も食べるのは人間業ではない。

 私は口をつけたドーナツ一つを包み紙で包んで持つと、残りのドーナツを袋に入ったまま後ろの人物に返却した。


「食べきれない。」

「そう言うと思った。残りは私の分だ。きみが全部持ち帰るとは思わなかった。きみは甘いよりも抹茶味とかコーヒー味がタイプだと思ったから。」

「ものすごい甘党なのね。」

「甘いものは頭にいい。甘ければ甘いほどいい。」

「カロリーはどうするの。」 

「どうにかできる以上のことを私がすると思うのかい?」


 ハナエは袋の包みを開けるとその甘ったるいドーナツを食べ始める。ハニー味が本当に好きなのか。息をする音と咀嚼する音が後ろから絶えず聞こえる。しばらくすると鼻歌を歌い始めた。雨に唄えば。今は晴れているのに何故その曲なのか。


「カナコ。人生お気楽に生きて損はないよ。」


 学校でも自宅でも一切の妥協をしないハナエは勉強するかペットの飼育をするかゲームをするか、また食事をしたり寝ることなど一日にある自分のイベント全てに全力を傾けている。彼女の私生活は訳がわからない。常に最大効率で最大効果を上げ続ける。

 その底無しのエネルギーは一体どこから供給されるのだろう。地面に根っこを生やして養分を吸い出しているかのようだ。

 それでいてこのお気楽宣言をしている。

 ハナエは今自分の持てる全力でお気楽に過ごしているのだ。

 意味不明すぎてだんだんと気が遠くなるので考えても無駄なのだ。


『ルート合流地点です。速度調整:加速毎時2キロメートル』



 コンベアーの速度がほんの少し早くなる。合流する方のルートの速度とこちらの速度の間に差異がある時、ルート上に乗っている人数が少ない方のルートが加速、減速することでスムーズに、また事故なく別ルートに移行できる。

 緑色のルート。

 乗って来るのは三人。

 誰彼もフレンド登録済みだ。

 女は一人。柿原ユウコだ。16歳

 男は二人。茅葺ショウヘイと漆野ケンゴ。

 どちらも私と同じ18歳。


 私の目の前にある建物。

 洋服店だったか。

 その向こう側のルートはこのルートと合流する。

 緑と青。

 混ざれば空色になる。

 ふと見上げてみれば今の空は、夕日が橙に染めあげている。

 空色と言ってもシアンだけではない。


「ああ、カナコか。」

「こんにちはシュウヘイ。それにケンゴも。」

「おっす。」


 茅葺シュウヘイ。黒く短い髪に黒い瞳。

 背は高く、スッキリした顔立ち。

 確かサッカー部員だったはず。

 漆野ケンゴ。シュウヘイよりは淡い黒髪。グレーの瞳。鼻には怪我でもしたのか絆創膏が貼ってある。シュウヘイと同じくサッカー部員。これは確実に覚えている。


「カナコさん。それとハナエさんも。」

「柿原か。部活帰りと見える。」

「今日の練習がいつもより早く終わったんです。」


 柿原ユウコ。

 赤い丸眼鏡を掛けて、いつもアナログな紙のメモ帳を持っている。普段気になることを書き留めているそうだ。黒のボブヘアーに、薄緑がかった黒い瞳。サッカー部のマネージャーを務めていたのか。


「カナコ。もう夕暮れなのに、なんで『こんにちは』って言うんだ。」

「そうね。『ご機嫌よう』という言葉もあるわ。」

「私が『ご機嫌よう』だなんて、言える訳ないじゃない。」


 口火を切ったのはシュウヘイ。それに乗っかったのはユウコ。私はそれに返答する。私はお嬢様でもないのだから、そんな言葉遣いはできない。


「でもよ。『ご機嫌よう』と言うだけならできるんじゃないか。」

「そんな性格じゃないって言ってるの!」


 ケンゴは何故かその言葉に拘った。

 私は少し興奮した語気で答える。


「そうだ。カナコは小動物だからな。」

 ハナエは後ろからそう声を掛ける。

「小動物ってどういう意味?」

 ユウコが質問する。

「大きくないって意味さ。謙虚で誠実。そんなミーニングで使った。」

 ミーニング。意味という単語。

 でもミーンには確かずる賢いという意味もあるはずだ。

 ずる賢い。その単語から私は何故かキツネやハイエナを思い浮かべる。動物と言うよりも二足歩行で農村から野菜を奪っていくようなそんなイメージ。英語に引っ張られたせいか、連想がちょっと童話チックだ。


 それからはたわいない話をした。

 授業のことや宿題の難度とか、昨日ケンゴが買った新しい靴のこととか。

 ハナエはあの甘すぎるハニードーナツを一つずつ彼らに渡した。


 私たちは何故夕暮れ時にサッカー部が早く部活を終えたのか。その理由を知っている。だけど誰一人その理由を話そうとはしなかった。

 恐れがあった。

 部活が早めに終わるとき、それは「バケモノ」がこの街に現れる前兆だ。

 そんな噂が真実めいて語られるようになったのはいつからか。

 でもその噂を聞いた誰もがその噂を黙認した。

 黙認せざるを得なかった。

 いや、性格に言えば噂を聞いたその時は、黙認しなければならないような空気が漂っていた。

 まるでいきなり天上から託宣が述べられたようなそんな気分。ガブリエルからの受胎告知を受けるマリアのような気分。

「バケモノ」はいつ出現するかわからない。しかし、噂であってもその縁となるのであれば、信じておいて損はないと思えた。火が燃えれば煙が立つのならば、煙を辿れば火に辿り着けるかもしれない。


 ヨウコ、シュウヘイ、ケンゴはまた別のルートに移って行った。町外れに一軒あるカラオケ店に行くのだそうだ。

 ハナエはそのカラオケに参加する気でいた。

「カナコも一緒に来るかい」

 ハナエにそう質問される。

 私はそれに異論を唱える気はなかったが、ルートは私の家のすぐ目の前まで来ていた。

「制服を着替えてから行くよ」

 私は、私の家の前に着いた途端、何故かある言葉を思い出していた。その言葉から私は今朝の会議のことも、あの少年のこともみんな思い出してしまった。それがおもいのほか衝撃的で、彼らと、ハナエと共にカラオケに行くような気分を削がれてしまった。

 誰かに「毛深い」と囁かれたような気がしたのだ。虫の知らせのようにか細い声で囁かれた。同行していた四人に聞いても、誰もそんな言葉は呟いてはいないと首を振る。

 シュウヘイもケンゴもヨウコもハナエも私をなんだか変な動物でも見るような視線で見る。四人はただ疑問に思っただけなのだろう。しかし、その視線は私の奥底を見透かそうとしているようで、夕焼けを映した赤色が不気味だった。

 私はその不気味さから逃げたのかもしれなかった。


 家に帰る。一人になることで。一人になって考えたい。整理したい。今朝のことについて、「毛深い」という言葉に付き纏われる理由について。

 私の家には家族はいない。父と母とも離れて一人暮らしをしているのだ。暗い部屋の明かりを一人で点ける。誰もいない部屋に入ることにはもう慣れている。


 玄関を開けてすぐに居間がある。一人で住むにはちょうどいい広さだ。居間にはテーブルもベッドも置いてある。ベッドはソファーの役割も兼ねていて、向かいのテレビを見ながら、またテーブルの上で食事しながら、ベッドに座ったり寝転んだり。私なりに機能美を考えて作った間取りだ。

 玄関から見て向かい側に大きな擦りガラスの窓があり、そこを開けると小さい庭が広がっている。人工芝なので管理もいらない。ただ緑が欲しかっただけで設えたものだ。家庭菜園もしなければペットのためでもない。

 その人工芝の上に何かが。

 何かの動物が倒れている。

 一面の緑はその体躯で隠されている。

 だから玄関から見て一目で分かったのだ。

 動物であっても人の敷地に入って来ることは不法侵入。つまり犯罪だ。

 私は今朝の不甲斐ないノケモノ会議初参加を思い返しながら、私の居間をずんずんと進み、窓をガラリと開ける。

 擦りガラス越しにも見覚えがある横縞は、どうしても私に今朝のことを思い出させたのだ。


「何で。」


 人工芝の上。

 そこで今朝の茶髪の少年、柊レオは眠っている。胎児のように体を丸めているというよりは、まるで四つ足の獣が伏せったまま眠りに落ちたかのような姿勢で寝ている。

 ノケモノ会議は絶対だ。

 ノケモノになった存在はこの街から排除されると二度とこの街には入れない。それは子どもであっても例外ではない。

 だのに、柊レオは今朝ノケモノにされたばかりであるにもかかわらず、私の家の庭で眠っている。

 死んでいるのならばまだ説明がつきそうなものだ。しかし、少年の息は人工芝を確かに揺らしている。腹は一定のリズムで上下する。

 どうやら生きている。事実として柊レオは生きてここにいる。

 そしてもう一つ、不可解な点があった。

 柊レオの尻。つまり臀部に変なパーツが付いている。長く太い縄のようなそれは、先端に掃除にでも使うような毛を一房付けている。

 それはまさしく百獣の王が持つ尻尾を思わせた。それは周期的にぱたぱた人工芝を叩く。

 おもちゃだろう。なぜなら今朝はそんなものつけていなかったからだ。なんだか知らないが柊レオはケモノごっこでもして遊んでいたのだろう。なぜノケモノになってもこの町で自由にいられるのか。なぜ会議の決定に対して自由なのか。疑問は山ほどあるが、まず私が取るべき行動は一つだった。


 私は試しにライオンの尻尾を掴む。

 おもちゃだろうと分かってはいる。しかしそれに反して私に沸き起こったのは一つの空想だった。

 これがもし本物のライオンの尻尾だったら。

 それがどんな意味を持つのかなんて考えられない。でもなんとなく。

 そうだったら面白いなと思ったのだ。


「ひうっ」


 結果はどうか。

 尻尾を掴まれると少年はびくりと反応した。

 まるで感覚が通っているかのように!


 私は自分の中で沸き起こる興奮した感情に、初めてであっても覚えがあった。

 泡草ハナエが動物を飼い育てる時に、またそれを私に語る時に見せるあの熱狂。

 私の常識で測れない存在が今ここにいるという事実に、私の心は大きく驚きそして確かに喜んでいる。

 ノケモノ会議でノケモノにされても戻ってこれること。人の家に入ってきても眠れてしまうその性質。そしてその奇妙な尻尾。

 何より聞きたい「毛深い」という言葉の意味、


「面白いねぇ、君!」


 私は躊躇なくその尻尾をむんずと掴むと引っ張った。18の女と言えども大人と大差ない腕力。引っ張られた尻尾が千切れてしまう危険性もあったが、私がそれに気づいたときはその尾を引っ張ったそのときだった。


「痛っだい!!!」


 哀れな被害者柊レオはまさにライオンのように吠えながら目を覚ました。尻尾の触り心地は良い。きちんと人肌の熱が通い、血の脈動もあるようだった。確かにそれは生きており引っ張るととんでもなく痛いだろうと分かっていた。

 でも引っ張った瞬間、私はそれに気づいていたとようやく思い出す。

 気づいていて、それでも目を背けていたのだ。


「ごめんなさい。」


 盗人に追い銭ということわざがある。愚かなことという意味だ。私は今何をしているのか。愚かなことである。


「たしかにぼくは、あなたの巣に入って、庭で寝てしまいました。でも尻尾を掴んで引っ張るのはルール違反です。スポーツマンシップ違反です。レッドカード退場!」


「私の家から私が退場するわけないでしょ。」


 尻尾を引っ張られた少年柊レオはあの後私に対して尻尾から伝わる痛みを訴え続けた。合計小一時間。涙が出るほど痛かったのだろう。最初の五分は人工芝の上で蹲ったまま痛い痛いと呻いていた。幼気な小学校高学年くらいの男の子を、自宅の庭に不法侵入したことと、変な尻尾を生やしていて、今朝変な言葉を発したことでとても興味に思っていても18歳のほぼ大人の私が変な尻尾を掴んで引っ張ってはいけないのだ。流石に罪悪感を覚える。

 次の十五分柊レオくんは警戒態勢に入った。小さい庭の端っこに目にも留まらぬ速さで動き、痛みを和らげるためか自分の尻尾を人間の舌で舐め始めた。私は彼にコンタクトしようとしたが、返ってくるのは敵意のある睨みだけだった。これでは私の家から出てゆけとも言えない。それよりも私は私のしてしまったことに責任を負っていた。是非ともあの尻尾の痛みを治すか和らげるくらいのことはしなくてはならないのだ。睨む眼光で拒絶されていることを薄々感じつつ、私の心の中にはそんな義務感が燃えていた。

 次の二十分間私は野生動物にするように柊レオくんに対して和解をすべく色々な策を講じた。家からおやつを持ってきたり消毒スプレーやガーゼや包帯を持ってきたり、『和解』と書いた画用紙を広げてアピールした。捕獲するのは彼が人間の男の子であるから良心上良くない。また彼が逃げてしまってもそれはしょうがないと思っていた。

 彼は逃げなかった。

 私は半ば諦め気味に『和解』アピールを始めていたが、画用紙を出したところで彼はとうとう堪えかねて笑い出した。

 私が柊レオくんとの接触を正式に果たした時にはもう日はとっくに沈んでいた。

 彼も家に帰らなければいけない時間ではないか。そして私がこうして私の庭で彼に暴力を振るいこうして拘束しているのは事案ではないか。心を開かれた安堵から一転して全身から血の気が引いた。

「柊レオくんだったっけ。」

「はい。」

「君はお家に帰らなくていいの?」

 お家に帰る。

 その言葉を聞いた彼はギクリと震えたが、すぐに首を横に振った。まるで水浴びをした後に水を振り落とそうとするように見える。

 しっかりとその茶色い瞳は私を見据える。

「いいえ。ぼくは仕事があってここにきたんです。」

 子どもが「仕事」をする。

 それは違法就労ではないか。

 そもそもなんの仕事をしているのだろう。

 全く見当がつかない。

「親御さんは君を探していないの?」

 質問を変えることにした。

 ヘンテコにヘンテコが加わると私はもうついていけなくなってしまう。

 ついて行けそうな分野で勝負だ。

「親は居ません。ぼくの雇用主の家なら知ってます。」

「雇用主?」

 また恐ろしい言葉を言う。

「ええ。住み込みで働いてます。」

 小学校高学年の子が、

 雇用主の家で住み込みで働いている?

「もしかしてメイドとかやってるの?」

「それは副業ですね」

「やってるんだ」

 ライオン尻尾のついた男の子が給仕をしたり身の回りの世話をするのだ。ヘンテコ具合で脳が茹で上がりそうだ。

 いや、待て。感心してる場合じゃない。

 大事なのは私の今の状況だ。


 事案なのか、事案じゃないのか。

 それが問題だ。

 事案だったら今度は私がノケモノ会議にかけられてノケモノにされてしまう。

 この街からの追放である。

 それは嫌だ。


「あの柊くん。流石に夜も遅いし帰った方が」

「今日はあなたの巣に泊まることにしていたのです。」

 大人の対応で家に返そうと、いや住み込みで働く雇用主の家に帰そうとする私に対して、柊レオくんはそう言い放つ。

 そして呆然とする私をよそに開いた窓から明かりをつけた家に侵入していく。


「ちょっと待って!」


 私は慌てて窓を閉めようとする。

 彼は体もう私の部屋の中に完全に入っていた。しかしまたもライオンの尻尾だけが入ろうとする途中だった。


「痛っだい!!!」


 気を張っていないと、どんなことでも繰り返してしまうのだ。

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