第32話 終章・魔俠ここに誕生す(その1)
薄暗く、狭く寒い部屋の扉が開いた。
制服姿の男たちに囲まれて入って来たのは、頭にすっぽりと白い頭巾を被せられ、囚人服を着せられ、両手に手錠を掛けられた者であった。
それが男か女かは、わからない。
冷たく整然とした制服の男たちの足取りに比べ、そのものの足取りはよろめきがちで、おぼつかない。
と、突然、その者は本能的な恐怖を覚えたらしく、逃げようとする。
…が、たちまち制服の男たちに取り押さえられ、部屋の中央に、引きずられてゆく。
ガランとした部屋の中央には、輪になった白い麻縄が、ぶら下がっている…。
刃がギラリと、電灯の光を返している。
その刀を構え、白装束に身を包んでいるのは、平之助であった。
しかしその顔は蒼白で、まったくの無表情であり、まなざしだけがやけにギラついている。
輪になった麻縄の中に、白い頭巾を被った頭が無理矢理突っ込まれている。
その者が激しく抵抗するのを、制服の男たちが強引に押さえ付けているのだ。
そして、その者の首に麻縄がしっかりはまったとたん、バタン! という恐ろしい響きと共に、床板が開いて、その者の身体はその中に落下していった。
凄まじい速度で落下した死刑囚の身体は縄が伸びきるとその反動で1メートル以上も跳ね上がり、そして大きく左右に振り子のように、ブランブランと揺れる。
平之助の刀の構えがより深くなり、まなざしのギラつきもいっそう激しくなった。
そのまなざしは、縄の先で揺れている死刑囚の動きを追っている。
次第に、振り子の振り幅が小さくなってゆく。
白い頭巾に赤い斑点が現れて広がり、下半身からはボタボタと糞尿が垂れ落ちるが、平之助は一向に気にする風はない。
やがて…。
「キエエエエエイッ」
凄まじい気合の一声と共に、平之助が渾身の一太刀を右から左に振るった。
と、死刑囚の胴体は
鮮血と臓物が滝のように床に、周囲にぶちまけられ、平之助の顔も白装束も、たちまち血潮に染まる。
…この様子を、隣室で小窓から見ている橘藤伊周と、部下の島田の姿があった。
島田とは、車を運転していて橘藤と共に丹波に足を撃たれ、かつ彫鉄の家の前で見張りをしていた、あの若い下士官である。
橘藤は顔の真ん中に斜めに包帯を巻いていた。
例によって細い外国の葉巻を燻らせつつ、その口辺に薄笑いを浮かべている。
「なかなか腕を上げたじゃないか」
橘藤は薄笑い以外はピクリとも表情を変えずに云った。
島田の方は蒼ざめて気分悪そうにハンカチで口を押さえている。
「しかし隊長殿」島田は云った。「竜宮寺製薬の「法悦丸」の効き目は、凄いものですな。一体、どんな成分なのですか」
またしても「法悦丸」!
読者諸君は竜宮寺大助が哀れな丸山トミ子を断頭台下に引き据えた際に、彼女に「法悦丸」を飲ませていたことを覚えておいでだろうか。
その時にもチラリと触れたが、「法悦丸」とは竜宮寺製薬の最大のヒット商品である、向精神剤のことだ。
この薬によって、それまでは一地方のインチキ薬の行商の元締めに過ぎなかった竜宮寺一家は、今や中央政界にもニラミを効かせられるほどの一大財閥に成り上がったのだ。
そしてその薬を、平之助は飲んでいるのだ。
いや、正確には橘藤たちに飲まされていた。
「フフン」橘藤は不気味に笑った。「それはアヘンと…。あとは知らぬが仏だ。聞いたが最後、あまりの気色悪さに、一生涯悪夢にうなされ続けるぞ」
「一生涯…」島田は呟く。「隊長殿は、それをお聞きになっても大丈夫なのですか」
「フフン」橘藤はまた笑った。「だから俺だって、その成分は知らん。あまりそれに詳しくなると、逆に竜宮寺製薬を捜査しなければならなくなる。せっかくこんな有効利用できる重宝な薬なのだ。もうしばらくは、知らぬが仏でいさせてもらうさ…」
****
話は、竜宮寺大助が大江医院に現れた日にまで戻る。
平之助は、病室の窓から表を掃く大江雪緒を見やっている。
当然、まだこの時点では竜宮寺大助は登場していない。
また、平之助はこの大江雪緒と雪華の関係についても、何も知ってはいない。
しばらくの間、大江医師と平之助は雑談を続けていた。
と、何だか扉の向こうの雰囲気が、変になった。
騒々しいのではなく、逆に妙に重苦しい沈黙に、包まれたのだ。
大江と平之助は顔を見合わせた。
大江が病室から出て行き、平之助は扉を薄く開けて、その向こうの様子を窺った。
何かとんでもない事態が起きているのはすぐにわかった。
ただ、何が起きているのかは全然わからなかった。
でも、それがとんでもないことだけはわかったのだ。
同時に、平之助の全身に悪寒が走った。
入口に、竜宮寺大助が立っていたからだ。
この時、平之助はとっさに、竜宮寺大助が自分を探しに来たのだと思った。
次いで、どうすれば竜宮寺大助に見つからずにここから逃げ出せるか、ということであった。
カタキを討つ絶好の機会だ、などとは露ほども思わなかった。
入口でのやり取りは、平之助には聞こえなかった。
それはひどく小さい声でボソボソと、しかもごく短いやり取りが交わされただけだった。
そして直後に驚愕の展開になった。
すなわち、竜宮寺大助の後ろに控えていた派手な着物姿の女が、いきなり拳銃を取り出し、撃った。
が、大きな音はしない。
話には聞いたことのある
続いて、今度は大きな音がした。
その音と共に、大江医師が床に倒れるのが見えた。
大江雪緒が悲鳴を上げかけて、派手な女に羽交い絞めにされ、口を押さえられた。
竜宮寺大助が、ニヤニヤ笑いながら、何か云っている。
その間、雪緒は派手な女に拳銃を頭に突き付けられ続けていた。
この派手な女を平之助はどこかで見た気がするのだが、思い出せない。
もっとも、今はそれどころではない。
その女に拳銃を突き付けられたまま、雪緒は引きつった表情で、倒れている大江の傍らにひざまずく。
そしてそのまま、泣き叫ぶでもなく、じっと瞑想するように、目を閉じて、大江の身体に手を当てているのだった。
雪緒の口が微妙に動いていた。
何かを呟いているようだ。
と、竜宮寺大助の視線がいきなりこちらに向いたので、平之助はギョッとしてその場に凝固した。
竜宮寺大助は倒れている大江と瞑想(?)する雪緒の傍らを抜けて、奥へ、つまり平之助のいるこちらへと、ゆっくり歩き始めた。
平之助はガクガク震えが止まらなくなった。
額にも掌にも、じっとりと汗が滲んだ。
だが、派手な女が竜宮寺大助に何か云った。
竜宮寺大助の顔からニヤニヤ笑いが消えた。
足早に雪緒の所に戻ると、何か云って、彼女を立たせた。
雪緒は呆然と、倒れている大江を見つめていたが、派手な女にまた頭に拳銃を突き付けられつつ、竜宮寺大助と共に、入口から出て行った。
それからは、何も起きなかった。
入口に大江が倒れたままだった。
五分経ち、十分経った。
それでも何の動きも起きないので、平之助はようやく、恐る恐る、病室を出て、入口に向かった。
大江は倒れていたが、息をしていて、ただ単に眠っているようだった。
平之助はホッとして、ふと見上げてギョッとした。
そこの壁に、血が飛び散っており、小さな穴が開いていた。
血はまだ生々しく、乾いていなかった。
その位置と、今大江が倒れている位置からして、その前に大江が立っていたと考えるのが自然だった。
さっき派手な女が消音銃を撃った方向とも、符合する。
なのに大江には見た所何一つ傷がない。
しかも大江は呼吸している。
何が起きたかさっぱり分からず、平之助は混乱した。
突然、入口に人影が現れたので、平之助は驚愕して腰を抜かした。
危うく失禁する所だった。
入って来たのは軍人だった。
階級章から中佐とわかる。
針のような鋭いまなざしだが、顔の真ん中に斜めに包帯を巻いていて、唇の上の薄い口髭と共に、本来は冷ややかな印象を与えるはずだが、逆にいささか可笑しみすら感じさせる。
もっともそんなことはもう少し後になってから思ったことで、その時の平之助はただただ腰を抜かしていた。
「私は東部第七憲兵隊隊長、橘藤伊周中佐である」橘藤は軽く敬礼しつつ名乗った。「安心したまえ。私は敵ではない。君は杉戸平之助君だね」
「そ、そうです」平之助は混乱したまま、答えるのがやっとだった。「どうして僕の名を」
「詳しい説明は後だが、それが我々の仕事なのでね」橘藤は手袋をはめて大江の傍らにひざまずき、壁の血と穴に目をやった。「とりあえず、何があったのか聞かせてもらおう」
平之助は警戒心も何もあったものではなかった。
何だかよくわからないが、話し出した。
それはひとえに、橘藤が軍服を着ていたからだ。
軍服や警官の制服に対する無条件の安心感だ。
橘藤の背後から、やはり軍人が数人、慌ただしく出入りした。
平之助の話を、橘藤は遮ることなくフムフムと聞いていたが、メモなどは取らない。
「フム…。わかった」橘藤は平之助が話し終えるとそう云い、横を向いて呼ばわる。「島田!」
島田が痛む足を引きずって飛んで来て、直立不動で「ハッ!」と敬礼する。
橘藤はその耳元に何事かヒソヒソと囁いた。
島田は「ハッ!」と再び敬礼して、足を引きずり引きずり、出て行った。
「大変申し訳ないが」橘藤は口辺に薄い笑みを浮かべつつ、懐中から舶来物の細巻煙草とライターを取り出し、煙草をくわえ、火を点ける。「君の目撃したことは現時点では重要国家機密でね。君の身柄を一時拘束せねばならん。心配無用。悪いようにはせんよ」
「先生は」平之助は大江を見て云った。「大丈夫でしょうか」
「もうすぐ目覚めるだろう」橘藤は云った。「ただし、しばらくの間は寝惚けたような、薄ボンヤリした感じらしいが」
「よくわかりません」平之助は困惑顔で云った。「一体何があったのか…。何故竜宮寺大助は僕でなく奥さんを連れて行ったんです?」
橘藤の顔に面倒臭そうな表情が浮かんだのだが、顔の包帯のせいで平之助にはそれはよくわからなかった。
橘藤は煙草を持つ手を振りつつ云った。
「その説明は本部でする。さあ、お迎えだ」
平之助はいきなり両腕をつかまれた。
平之助の両脇にいつの間にか二人の下士官が立っていたのだ。
いきなりだったので、平之助は少し抵抗したものの、鳩尾を殴られてたちまち気を失った。
得意のバリツの技を披露する間もなかった。
こうして平之助は憲兵隊に連行されたのだが、格別の取り調べもなく、噂に聞いていたような拷問もなく、憲兵隊舎の外へ出られないという以外は、将校用の気の利いたホテル並みの宿泊室をあてがわれ、手紙を書くのも自由だった。
ただし差出人は名前のみの記入が許され、住所は表にも文中にも、記入禁止であった。
当然、内容は検閲された。
そして当然、返事は来なかった。
で、突然、平之助の訓練が始まったのだった。
「君、父上の復讐をしたいんだろう?」橘藤は例によって薄笑いを浮かべつつ云った。「我々はそれを支援しようと思う。君はバリツを稽古しているそうだが、あれはしかし、あくまで武術だ。復讐には向いていない。それで、これを持参した。覚えがあるだろう」
そう云って橘藤が差し出したのは、一本の刀だった。
橘藤が抜いて見せると、平之助は驚いた。
「これは…。親父の長脇差…」
鞘が違っているのですぐにはわからなかったが、抜き身になればわかった。
平之助は、その長脇差を、半ば押し付けられるように橘藤から渡された…。
初めは、濡れた巻き
そしてそれが終わると、執行したての死刑囚を斬る訓練に代わったのだ。
いずれの場合も、平之助は「法悦丸」を飲まされ、平常とは違う精神状態にさせられていた。
「隊長殿」橘藤の傍らでこの様子を見ていた島田が訊いた。「こんなにまでして、我々は彼らの復讐とやらに協力してやらねばならないのでしょうか。それに、どんなに速成訓練しても、しょせん素人は素人ですし」
「君は若いな」橘藤は答える。「これは民間協力という奴だ。あるいは民間力の活用とでも云うかな。彼はあくまでも志願して、敵と戦うのだ。速成は、我が国が西欧列強にならって近代化を始めて以来のお家芸じゃないか。そうやって我が国はハリボテの近代国家とやらを作って来たのだ。それに、こんな件でわざわざ我が「第七」から犠牲を出す必要もあるまい。我々の仕事を、彼が代わりにやってくれるのだ」
そう云って橘藤は薄気味悪くニタリと笑う。島田は、自分の上司ながら思わずゾッとしてしまう。
****
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます