第31話 悲母観音と炎般若(その4)

 本格的に振り出した雪が、山奥の廃村を白く埋め尽してゆく。

 その中に、ただ一人立つ雪華の姿があった。

 今日もまた、黒装束を身につけているが、それは全体に極端に短くなっている。

 上は胸の辺りをかろうじて覆っているだけ、下は腰の辺りをかろうじて隠しているだけだ。

 背の下半分には極彩色が見えているが、上半分が覆われているので、全体の柄は良くわからない。

 雪華は静かに息を整え、身構える。

 正眼の構えだ。

 吐く息が白い。

 その表情は、周囲の風景よりも冷厳な無表情だ。

 その雪華のまなざしの先には、一本の柿の老木が立っている。

 熟した柿の実がたわわに実っているが、誰も採らず、誰も食わない。

 雪華は、顔の前に縦に構えていた右腕を、真横に構え直した。

 雪華のまなざしは、たわわに実る柿の実の一つに集中している。

 右腕の先を、左耳の後ろ辺りまで引き、「ハッ」という掛け声と共に、思い切り前に振る。

 右手の指先から、何かが抜けてゆくような感覚があって、次の瞬間、見つめていた柿の実がプツッと地に落ちてグシャッと潰れた。

 しかし、それで成功なのではない。

 これからが重要なのだ。

 急いで雪華は、右腕を再び真横に、顔の前で構える。

 この腕を構え直す位置を正確に読まないと、この腕を切断し、かつ顔面も切断し、即死する。

 そして、腕から放ってまた戻って来るまでには、ほんのわずかな時間しかない。

 右腕に、ガッ! と何かがぶち当たるような衝撃があった。

 しっかり足を踏ん張っていなかったら、そのまま倒れてしまうほどの衝撃だ。

 だが衝撃の次の瞬間には、それはもう腕になじみ、溶け込んでいた。

 それはまるで、外では獰猛な闘犬が、家に帰れば飼い主に甘えかかるようなものかも知れない。

 雪華は続いて、左腕も右同様に構えて、同様に前に振り出す。

 今度は別の柿の実が、三つ立て続けに落ちた。

 振り出すと同時に左腕を構え直す。

 やはりガッ! というような衝撃が左腕に戻って来て、すぐなじむ。

 休む間もなく雪華は、右と左の腕を交互に振り出す。

 先に柿の実が枝ごと落ち、次いで幹の真ん中がぶった切られて、大きな音と共に柿の木の上半分が倒れた。

 雪華は高まっていた。

 息も荒くなって来た。

 両腕を大きく横に開き、「気」を己の胸に集めた。

 開いた両腕を、伸ばしたまま前方へと持って来て、一気に振り出した。

 まるで、管弦楽オーケストラ指揮者コンダクターが巨大交響楽シンフォニーを振り始めたかのような仕草であり、確かにその一瞬、空気がヴァン! と鳴り響き揺らいだようでもあった。

 柿の木と道をはさんだ向かいに廃屋が一軒あった。

 その廃屋が真横にぶった切られて、凄まじい塵や埃をもうもうと巻き上げながら、轟音と共に崩れ落ちた。

 雪華は両腕を大きく広げて待つ。

 突き抜けるような衝撃が胸に飛び込んでくる。

 雪華はそれを全身で受け止める。

 衝撃は、胸の辺りを覆っていた布を千切った。

 布は、両の乳房の先をわずかに覆うほどにしか残らず、背中の極彩色は露わになった。

 衝撃はたちまち体になじんだ。

 一呼吸置いた雪華は、今度は両足の指先に両手の指先が着くほど前屈姿勢になって、その内に「気」を溜めた。

 そして一気に状態を上げて反らし、その「気」を解放するように飛ばした。

 今倒れた家のさらに向こうの二軒の廃屋が、相次いで真横に切断され、ついでに柿の木の向こうにある、何の木かはわからない大木をも切断して、身体を大の字にして待つ雪華へと、戻って来た。

 衝撃で腰の周りを覆っていた布が、秘所をわずかに隠す程度にのみ残して、吹き飛んだ。

 雪華は廃村のど真ん中で、ほんの申し訳程度の布を身にまとう裸になった。

 恥ずかしさなどなかった。ただ強烈な法悦エクスタシーに満ち満ちていた。

 会心の笑みを浮かべて、雪華は天を仰いだ。

 もはや、恐れるものは何もない。

 ただ一つ、恐れるものがあるとすれば、それは己の心の弱さだけだ。

 心と身体の昂ぶりを抑えるように、雪華は己の裸身を抱きしめた。 

 雪はますます強く降りつのり、吐く息は真っ白であるのに、雪華はまったく寒さを感じない。

 むしろ、熱いくらいだ。

 その証拠に、雪華の白い肌に降りかかる雪はたちまち解けて蒸発してゆくのだ。

 雪華の裸身から、湯気が立っているのだ。

 雪華の全身は今、常人では考えられぬほどに火照っているのだ。

 背後に気配を感じ、雪華は振り返りざまに身構えた。

 だがたちまちにその構えを解いた。

 彫鉄が複雑な表情をして立っていた。

 右手は包帯でぐるぐる巻きにされており、左手には折りたたんだ新聞を持っていた。

「何日か前の新聞だ。丹波さんが置いてったらしい」その新聞を雪華に差し出しつつ、彫鉄は云った。「雪ちゃんに見せるべきじゃないかも知れねえが、何を今さら、だ。辛いだろうが、現実だ」

 雪華はその新聞に目を落とす。

 たちまち一つの見出しに目が吸いつけられる。

『牧師館令嬢、バラバラ屍体で発見さる

    牧師館は不審火で炎上 両親は焼死

 東京湾上にて漂流していた棺桶より発見された若い女性のものとみられるバラバラ屍体は、××區××町の牧師丸山富次郎(50)クメ(48)夫妻の一子トミ子嬢(17)であると判明した。トミ子嬢は先日発生した当牧師館の全焼火事以来行方不明となっており、警視庁は全力を上げてその行方を捜査している真ッ最中であった。遺体は仏蘭西王家の百合の紋章の入った棺桶に入れられており、一見普通の状態に見えたが詳細に調べてみると首、両腕、上半身、下半身、両脚の各部に切断されていた。この棺桶の第一発見者は…』

 雪華の手から、新聞が落ちた。

「トミちゃん…」

 呆然とする雪華の両眼から、ハラハラと涙がこぼれ落ちた。

 彫鉄が痛ましげに云う。

「やっぱり…。何だかその名前、丹波さんから聞いたことがあると思ったんだ。丹波さん、嬉しそうに云ってたぜ。雪華に、学校で友達が出来た…ってな」

 しかし雪華にキッと睨まれて、彫鉄は慌てて口をつぐむ。

 雪華は彫鉄に背を向ける。

 彫鉄は思わず大きく目を見開く。

(さすが俺の最高傑作だ…。我ながら、惚れ惚れするぜ。これが彫れたんだ、指なんぞ惜しくねえ…)

 雪華の背をキャンバスにして描かれているのは観音様だった。

 人呼んで、「悲母観音」という。

 かの狩野芳崖かのうほうがい描くところの同名画をモチーフにしている。

 中空におわします豊麗な観音様と、その足元近くに、青白い円環に包まれた赤児の姿がある。

 その赤児からは一本の紐のようなものが、地に向かって垂れ落ちているが、これはへその緒であるのかも知れない。

 観音様は右手に水瓶を傾けて持ち、そこから水が赤児に向かって落ちているのだが、これはこれから生まれる赤児に命を与えているのだという。

 かの有名なフェノロサが、ラファエロの「聖母子像」に比肩しうるような日本画を、と芳崖に依頼し、芳崖は死の四日前までかけて完成させたという、凄絶にして唯美の傑作であり、岡倉天心が絶賛したことでも知られる。

 しかし、雪華はこの己の背に刻まれた逸品を未だ目にしていない。

 その図は、観音様の向かって右のラインから、足元の雲、そして赤児を包む円環を経て地上へとつながるへその緒へと、雪華の背中の傷を巧みに生かして、構図としているのだった。

 そのため、原図と微妙に違ってもいるのだが、それはどうでもよい。

 いずれにせよ、雪華は今後どれだけ生きるにしても、自分の目で直にこの一品を見ることは永久に出来ないのだ。

 だから雪華は、自身がこの画を急いで見る必要はないと思っている。

 見なくとも、充分に、染み込むように、身体に感じている。

 今はそれで充分だった。

 雪華は己の唇に触れた。

 雪華の目から、涙がとめどなく溢れて来る。

 悲しいとも、切ないとも、やるせないともつかぬ、そういうものではない、別な何かが、身体の奥から込み上げて来る。

 強いて云うなら、それはそう、やはり、怒りであろうか。

(来るぞ)

 彫鉄は雪華の背中を凝視する。

 雪華の肌のいろに、さっと朱が入った。

 すると、見よ。

 雪華の背中の悲母観音がスッと薄らぎ、代わりに現れて来たのは、鮮やかな紅蓮の炎であった。

 その真ん中に、くっきりと現れ出たのはクワッと牙を剥き、怒りのまなざしでハッタとこちらを睨み据える、般若の面であった。

 ただしこの般若は、右上から左下にざっくりと割れている。

 であるが故に、その恐ろしさも倍増している。

 この炎般若の図は、面がざっくり傷ついている以外は、丹波が背に負うているものと寸分違わず同じであった。

 雪華は、自分の背の彫物がこのように変容したことを知らない。

 彫鉄一世一代の「二重彫り」であった。

 背中の傷を利用して、表の皮膚には「悲母観音」を、その下の皮膚には「炎般若」を彫り込んだのだ。

 もちろん、普通の彫り方ではそんなことは不可能だ。

 マモノとして、「魔薬調合」の術を持つ彫鉄ならではの、と云うよりは彫鉄でなければ不可能な、彫物であった。

 そのやり方はここに詳述出来ない。

 何故なら、その秘法は一般の人間の使うあらゆる言葉によって記そうとすると、たちどころに消えるという呪文を掛けられていて、筆記が不可能なのだ。

「アアアーッ」

 雪華は叫び、その叫びはすっかり雪化粧した山あいにこだました。

 雪華は再び身を屈める。

 そして、両腕を大きく広げる。

 凄まじい力が、雪華の全身から放出された。

 彫鉄は思わず地に伏して、頭を抱えた。

 雪煙が舞い上がり、この廃村に未だ残っていた廃屋を、次々と崩壊させていった。

 建物ばかりでなく、樹木も、次々と伐り倒されてゆくのだった。 

 その光景は、まさに大崩壊カタストロフという言葉が相応しいものであった。

 ほぼ裸形の雪華は、両腕両脚を大の字に開いて、自らの発した力の戻って来るのを待つ。

 その力は、廃村の痕跡をすべて壊滅させたのち、雪華の身体へと、激しい衝撃と共に、戻って来た。 

 その瞬間、雪華は男との交合なんぞで得られるのよりも百倍も、千倍も凄まじい法悦エクスタシーを、全身でもって感じているのだった。

 この光景を、彫鉄の他に見守っている目があった。

 云うまでもなく、それは丹波だった。

 ちょうど東京から戻って来て、村の入口近くの高台から、この光景をじっと見つめているのだった…。


 ****


 ちょうど同じ頃の、とある夜中…。

 ここは浦益の川っぺリ、例の一本柳のある所だ。

 その傍らで、男が一人、夜釣りをしている。

 酒の肴にダボハゼでも釣ろうと、釣竿一本持ってやって来たのだ。

 ちなみにこの男、トミ子が浦益に来た時に「関係ねえ」と云って彼女を怖気付かせた漁師の男なのだが、まあそれはどうでも良い。

 何だか背後でゴソゴソ音がするので、男は釣り糸垂れたままそちらを見た。

 すると、一本柳の根元の土が、何だか勢い良く盛り上がっている。

(はて、土竜もぐらか?)男は眉をひそめて凝視する。(しかし、こんなところに土竜がいるものか…)

 と、突然、土中から土をはね上げて飛び出して来たものがあり、男は思わず釣竿を放り出して腰を抜かしたのだが、それが何であるかを見て、遂に気絶した。

 それは、顔面をX字に斬られた、ヒヒ面の男の首であった。

 白目を剥いたその首は、しばらくそこをフワフワ浮遊していたが、やがて、ピューッと天高く舞い上がると、サーッとどこぞやへ、高速で飛び去って行った。

 

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