第30話 悲母観音と炎般若(その3)
翌朝、まだ陽も昇らぬうちに、丹波は再び出発した。
「どうしても、気になるんだ」丹波は彫鉄に云った。「どうも、何事もなさ過ぎる。平穏過ぎるのが、かえって怖い。何かが、陰で蠢いている気がする」
「雪ちゃんに、会ってかなくていいのかい」
彫鉄が云うのに、丹波は首を横に振る。
「よろしく云っといてくれ。もうあいつは、俺がいなくとも自分で出来るさ」丹波はあばら家の框から立ち上がった。「あ、そうだ。あいつには例のことは云っといた。もう隠し通せる話じゃねえ」
「エッ」彫鉄が頓狂な声を上げる。「例のことって、アレかい? だって、丹波さん、それは一生黙ってるんじゃ…。それに雪ちゃんは、あんたを…」
「だからよ」丹波は深くもの憂げな溜息をついた。「だから…荒療治したんだ」
「荒療治って、あんた…」
「じゃ、行くぜ」
丹波は彫鉄を遮るように云うと、足早にあばら家を出た。
彫鉄は深い深い溜息を一つついて、たちまち遠ざかる丹波の後ろを見送りつつ、それとは逆の、廃村の中心の方へ、のろのろと歩いて行く。
そこにもう一人、昨晩から態度の急変した奴がいる。
「雪ちゃん」その後ろ姿に彫鉄は声を掛ける。「丹波さん行っちまったよ。見送らなくていいのかい」
しかし雪華はそれには答えず、「手刀術」の正眼の構えを取っている。
前日までとは、その雰囲気はえらく違っている。
黒装束はそのままなれど、両袖と手甲、脚には脚絆もなく、いずれもむき出しの生腕、生足になっている。
そして、これは背後からだから彫鉄には見えなかったが、雪華の顔が、凍りついたような無表情になっているのだ。
もっとも、顔を直接見なくとも、その後ろ姿だけでも、彫鉄にはそれがヒシヒシ伝わって来る。
「彫鉄さん、どいて、危ないよ」雪華は声もまったくのモノトーンになってしまっている。「愚図愚図してると、死ぬよ」
彫鉄は溜息ついて、肩をすくめて、仕方なく踵を返した。
(仕方ねえ。あのことを知らされたんじゃ、こんな風になるのも無理はねえ)
そう思いつつとぼとぼ行く彫鉄の背後から、「彫鉄さん」と雪華が呼びとめる。
彫鉄が振り返ると、張りつめたような無表情の雪華が、ゆっくりした足取りで近付いて来た。
彫鉄は思わずたじろいだ。
「お願いがあるの」雪華は無表情のままだったが、声は静かなれどほのかな熱がある。「私の背中に、彫って欲しいの。彫鉄さん、昔から私に彫りたいって、云ってたでしょ」
「えっ、あっ」彫鉄はドギマギして、額からドッと汗が滲む。「だけど、丹波さんが…」
「そんなのはどうでもいいの」雪華のまなざしにパッと紅蓮の炎が点いたようだった。「いつか必ずお礼するって、私、彫鉄さんに云ったでしょ。これが、そのお礼よ。ね、お願い。頼みを聞いて。聞いてくれなかったら、私、首くくって死んでやる。本気よ」
雪華は挑むように彫鉄を見る。
「雪ちゃん」恐る恐る、彫鉄は云う。「
「違うわ」即座に雪華は云った。「私、もう人殺しだもの。人殺しの女学生なんて、滑稽だわ。もう、カタギには戻れない。それに…」
雪華の声が沈んだ。
「この傷のままでいるくらいなら、丹波さんと同じ彫物をした方が…。だって、丹波さんは…」
すると無表情だった雪華の顔がたちまち歪み、目が真っ赤になって、涙がどっと溢れて来た。
雪華は両手に顔を埋めた。
彫鉄はたまらなくなって、思わず雪華を抱きしめた。
「悪かったよ、雪ちゃん」彫鉄は雪華の髪を撫でる。「安心したぜ。雪ちゃんは元のままの雪ちゃんだなあ。よし、わかった。この彫鉄、一世一代の傑作を、雪ちゃんの背中に見事、彫り上げてやらあ。その代わり、痛えぜ。音を上げるんじゃねえぜ」
雪華は彫鉄に抱きすくめられたまま、こっくりこっくり、うなずく。
あばら家に入ると、雪華は隅に重ねた煎餅布団を敷き、さっさと黒装束を脱いで全裸になると、そこにうつ伏せに横たわった。
覚悟を決めた潔さと云えば云えるが、どうも彫鉄には、先程雪華がああ云いはしたものの、やはりどこかヤケのヤンパチな態度に見えてしょうがない。
「もう一回訊くぜ」彫鉄は彫物道具を用意しながら念を押す。「本当に、いいんだな。彫物ってのは一度入れちまったら、一生消えないんだぜ」
「わかってる。本当にいいの」雪華は顔を枕に伏せたまま、答える。「彫鉄さんこそ、逃げちゃ駄目よ。もしそんなことしたら、その腕、ちょん切っちゃうからね」
「馬鹿にすんない。俺は逃げたりしねえ」彫鉄はちょっとムッとする。「で、雪ちゃん。柄に希望はあるかい。柄の見本帳もあるが、見るかい」
「丹波さんと同じ柄にして」即座にキッパリと雪華は云う。「そっくり同じ炎般若を彫って欲しいの」
瞬時、彫鉄は言葉を失った。
「雪ちゃん、そんなに丹波さんのことを…」ややあって、目頭に滲んだ涙を指で拭いつつ、彫鉄は云った。「だが、雪ちゃん、悪いがおまえさんの背にゃこの傷があるから、丹波さんのとまったく同じって訳にゃいかないよ」
「そう…」雪華は顔を上げることはなく、溜息をつく。「そうなの…」
「俺に任せてもらえねえか」彫鉄が云った。「さっき云ったろう。俺の一世一代の傑作を彫るって。雪ちゃんの希望は上手く活かすさ。な、俺を信じて」
「大丈夫」顔を上げて雪華は微笑んだ。「初めから信じてる。でなきゃ彫鉄さんにお願いなんかしない。いいわ。彫鉄さんにすべて任せる」
「有難うよ」
彫鉄も微笑み、雪華はまた枕に顔をうつ伏せた。
そのため雪華には見えなかったが、雪華の背の傷に指先で触れ、その上をひと撫でしたとたん、彫鉄の目に尋常ではない力と光が宿った。
まさにスイッチが入ったかのようだ。
「じゃ、始めるぜ」低く重々しく、彫鉄は云った。「痛いが、ガマンしな。音を上げるんじゃねえぜ」
それは並大抵の苦痛ではなかった。
肌の上に針で刻み込まれてゆく苦痛もさることながら、背中の傷がまた開かれ、そこに何かが刻み込まれ、刷り込まれてゆく苦痛は、悶絶以外の何物でもなかった。
肌は次第に熱を持って来た。
ジンジンとして来て、そのうち背中全体が、腫れあがったように熱くなり、波打つように疼き始める。
雪華は何度か苦痛のあまり「痛いッ」と叫んだ。
すると、普段の呑気な彫鉄からは想像もつかぬ厳しく鋭い調子で「黙れッ」とか「動くなッ」とか「根性なし。ガマンしやがれ」あるいは「甘ったれんな」などという叱責の声が飛んだ。
時には頭をポカリと殴られ、背中や尻っぺたをピシリと叩かれもした。
次第に雪華はムカッとして来て、そのうちには「畜生」とか「この馬面」とか「人でなし」などといった罵詈雑言も雪華の口から飛び出した。
だがそれも、時間が経ってその感覚に慣れて来ると、次第に快感になって来た。
肌に針を入れられ、色を刷り込まれる感覚が心地良くなって来て、終わってしまうのが惜しいとさえ思えた。
昨夜感じたのと同じような疼きが、何かが割れてとろっとしたものが流れ出すような感覚が、再び雪華の内部に現れていた。
彫鉄は雪華の尻の奥が濡れてテラテラ光るのを認めたが、彫物をされる女がこうなるのは珍しくないので、そのことにはさして驚かない。
それよりも、この雪華がそうなっていることに何とも云い知れぬ感慨を覚え、同時に不憫に思えてならなかった。
彫鉄は思わず涙した。
彫鉄の額からポタポタ汗が落ち、今はもう極彩色に彩られた雪華の背中の上に散る。
その雪華も額といい背中といい、全身にわたってビッショリと汗をかいている。
雪華がこの布団に横たわって、すでに一昼夜が経っている。
その間、彫鉄も雪華も一睡もしていない。
やがて…。
「終わったぜ」
そう一言云うと、彫鉄が雪華の脇の畳の上へ「ひゃあっ」と大声を上げて仰向けに横たわった。
彫鉄は大きく息をしながら、出っ張り気味の腹を上下させている。
彫鉄はいつの間にか褌一丁の裸になっていた。
雪華は起き上がろうとしたが、全身がだるくて、まるで風邪を引いたかのようだった。
それでもようやく、よろよろと布団の上に起き上がると、三つ指ついて深々と彫鉄に向かって頭を下げ、「有難うございました」と云った。
「よせやい」横たわったまま彫鉄は手を振った。「お礼を云うのはこっちだよ。こんな極上の肌に、こんな彫師冥利に尽きるものを彫らせてもらえて、もう俺は彫物師として思い残すことは何もねえよ。…まったく、鏡がねえのが残念だ。だが雪ちゃん、間違いなくそりゃあ、この彫鉄一世一代の傑作だぜ」
だがそこで彫鉄は慌てて飛び起きた。
雪華が、彫鉄の身体の上にその裸身を重ねて来たからだ。
彫鉄は雪華の頬に平手打ちを喰らわせた。
「勘違いしちゃいけねえ」彫鉄は怒鳴った。「往々にして彫物された女はその彫物師にそういう気持ちを抱いちまうんだ。彫物された身体の火照りと高ぶりを、鎮めてもらいたくってな。だがそりゃあ一時の気の迷いだ。俺はそんなつもりは毛頭ねえよ」
「でも」雪華は頬を押さえたまま云う。「私、お礼が出来ません」
「雪ちゃん、自分で云ったことを忘れてるぜ。その身体に彫物をさせるのが俺へのお礼なんだろう? そんなにいくつもお礼はいらねえよ」
そう云って彫鉄はニッと笑い、「どれ」と云って立ち上がった。
彫鉄が流しから包丁を持って来たので、雪華はギョッとした。
彫鉄はしかし晴れ晴れとにこやかな顔をしている。
「しかし、こんなことをしちまって、丹波さんと死んだ無常さんにゃ申し訳が立たねえ」彫鉄は云いながら己の右手を畳の上に置いた。「ま、いずれにしろ、いつか雪ちゃんの肌に彫物が出来たら、こうするつもりだったんだ」
彫鉄は、左手に握った包丁の刃を、右手の指の付け根の上に置いた。
そして息を一つ整えると、「ヤッ」と叫んで勢い良く包丁を振り上げ、下ろした。
右手の、親指以外の四本の指が、綺麗に根元から切断された。
「彫物師の彫鉄は、今日を限りに廃業だ。心残りはまったくねえ」
苦痛に歪む顔に無理矢理な笑みを浮かべる彫鉄を、その血まみれの右手と畳の上の四本の指を、裸のままの雪華が呆然と見やっている。
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