第33話 終章・魔俠ここに誕生す(その2)

 すっかり冷たくなった男の素肌に、女は己の素肌を添わせた。

 雪緒のまなざしは全裸で横たわる丹波の姿を悲しげに見つめ、雪緒の手と唇は愛しげに丹波の身体の隅々を愛撫する。

 しかし丹波からは何の反応も返って来ず、雪緒のまなざしはますます悲しみのいろに染まる。

 雪緒の眼から涙が溢れ、それは丹波の肉体のあちこちに降りかかる。

 雪緒はやがて涙を拭い、気を取り直して、丹波の肉体の上に己の肉体を投げ出すように覆い被さった。 

 そして、丹波の唇に己の唇を軽く触れさせると、両手を丹波の胸に当て、その上に己の額を置いて、何かを祈るように、じっと目を閉じた…。



 雪緒は左右に大きく広げた両腕を縛られ、両脚も縛られ、ちょうど十字架上のキリストの如き格好をさせられている。

 眼前には、茫漠たる闇が、どこまでも広がっている。

 強い風が、容赦なく叩きつけられる。

 雪緒は、長襦袢一枚の姿であった。

 足下より、「お母さん、お母さん」と叫ぶ声が途切れ途切れにかすかに聞こえて来る。 

 雪緒も声を限りに云い返す。

「雪仁、雪仁」と。

 しかしその声はむなしく強風にさらわれ、闇の奥へかき消されてゆく。

 雪緒は首を出来得る限り下に向けて、雪仁の姿を見ようとするのだが、それも虚しい。

 足下もまた、茫漠たる闇が、広がるばかりなのだ。

(あの子が現れさえしなければ…)雪緒は滲む涙と共に思う。(あの炭焼き小屋であの子を殺してさえいれば…)

 だが、即座に雪緒は頭を振る。

(いいえ違うわ。やはり、私が悪いのよ)だがさらに頭を振る。(いいえ、悪いのは竜宮寺大助だわ。あの男が…)

 結局雪緒は、深い悲しみとあきらめと共に、どうしようもない諦念に満ちた溜息と共に、思わざるを得ない。

(結局、すべては私と丹波さんが出会ってしまったことから始まってるんだわ。そして私が、丹波さんを愛してしまったことから…)



 夜空に派手に幾つもの花火が上がる。吹奏楽団ブラスバンドが賑やかに曲を奏で始める。

 入口には、派手派手しいネオンサインに彩られた「帝国グランギニョールランド」の看板。

 総合公園開園を機に、「帝国グランギニョール一座」改め「帝国グランギニョールランド」となった訳である。

 会場は様々なアトラクションがライトアップされ、正装した紳士淑女が次々に来場して、係の者が彼らを来賓席に案内する。

 その来賓席に案内される客たちは、眼前に展開されている光景の壮麗さに目を見張る。

 これがあの、聖林ハリウッドから三カ月かけて運んで来たという、「イントレランス」の巨大なバビロンの神殿のセットなのか…。

 そう、これこそが、何と云っても当園の最大の目玉なのであった。

 あの伝説の超大作映画「イントレランス」。

 世界中で大ヒットとなり、一躍監督グリフィスの名を高め、我が国でも通常の倍以上という高額料金で公開されたにもかかわらず、大ヒットを飛ばした。

 だが、あまりの巨額製作費故にそれでも制作会社は赤字となり、ついに倒産する羽目に陥ったという、いわくつきの映画であった。 

 その中でも最も製作費を食ったといわれる、古代バビロンの神殿を再現した、巨大な大理石の門、石柱と象をかたどった装飾、そして大階段のセットを、竜宮寺大助が買い取り、万難を排して断固これを我が国に運び、こうして浦益の海岸の地に再建させた、という訳なのだった。

 横を見れば、向こうにはやはりライトアップされた、巨大なミケランジェロ作のダヴィデ像の複製レプリカが堂々たる体躯をさらしているし、それと対になるように、これまた巨大な「ミロのヴィーナス」も屹立している。

 世界史上の重大事件を再現したロウ人形が展示されているというヴェルサイユ宮殿を模した建物もまた、ライトアップされている。

 そしてその向こうには「東洋一」と喧伝された大観覧車がゆっくり回り始めていて、これもライトアップされている。

 今夜は、明日の開園を前にした前夜祭であって、招待された客のみが来ている。

一般の客の入場は、明日の本開園からとなる。

 しかし、当夜の主役であるはずの竜宮寺大助の機嫌は極限まで悪かった。

 すでにタキシードに身を包んで、舞台裏の控室にいるのだが、直前になって「出て行きたくない」などと云い出して、周囲の者たちを困らせていた。

 彼の不機嫌の第一理由は何より父親、竜宮寺大造の式典への不参加によるものであった。

 その上、父の許でその事業を補佐している兄の大作までもが、不参加を表明して来たのだ。

 そのくせ、巨額に掛かった費用を少しでも早く回収するために、開園の大幅前倒しを要求して来たのだ。

 だから、この「帝国グランギニョールランド」は当初の計画の実に五分の一程度の規模でのスタートとなった。

 予算も、大幅削減を余儀なくされている。

 だから、花火の数だって、ネオンサインやイルミネーションだって、当初の予定よりずっと少なくしなければならなかったし、管弦楽団オーケストラは呼べないので吹奏楽団で我慢しなければならないし、自慢の大型ヨットクルーザーだって売り払わねばならなかったのだ。

 その上、あのクルーザーはこの前の乱闘騒ぎで相当傷がつき、買値の半分以下でしか売れなかったのだ! 

 チェッ、忌ま忌ましい!

 さらには、来賓者だってそうだ。

 現宰相はじめ閣僚どもは早々に招待を断って来やがった。

 代議士ども、高級官僚、それに軍人どもも軒並み断って来やがった。

 財界関係者もそうだ。

 親父が来ないとなったら、どいつもこいつも掌を返したように断って来やがった。

 文化人、知識人と称する奴らも、名のある奴は誰も来ない。

 結局、集まって来たのは華族の子弟でフラフラ遊び歩いているような奴、二流の作家、二流の女優、華やかだけど、何の役にも立たない奴らばっかりだ。

 畜生、みんなして俺を馬鹿にしやがって。

 客の中でかろうじて名のあるのは、前建設大臣の浜尾代議士だけじゃないか。

 その上…。

 何より竜宮寺大助にとっては、それが最も気に掛かる部分ではあるのだが、あの通称「第七」が何かしら動き出しているという噂が聞こえて来るのだった。

 そんな馬鹿な。

 自分如きにわざわざあの「第七」が動き出すはずはない…。

 普段は尊大で誇大妄想な竜宮寺大助だが、こういう時だけは何故か自己卑下しても平気なのだった。

 しかし、いくら愚図っていても、来賓は(役に立たぬ連中ばかりとは云え)すでに集まって来ているし、この前夜祭のためだけに、すでに相当の金を費やしてしまっている。

 始めない訳にはいかない。

 竜宮寺大助は大いにふてくされながら、しかし客たちの前では大いに愛想を振りまきながら、華やかなスポットライトのある方へ出て行く。

 吹奏楽が華やかに曲を奏でる。

 最初に浜尾代議士が、古代バビロンの大階段のセットの最上段に、スポットライトを浴びて登場し、開園の辞に次いで一席ぶつことになっている。

 吹奏楽の演奏が、最高潮に達している。



 この様子を少し離れた高台から、双眼鏡で見ている男がいた。

 東部第七憲兵隊隊長、橘藤伊周中佐である。

 橘藤は相変わらず、顔の真ん中に斜めに包帯を巻いている。

 橘藤の背後には、数台の車の他、トラックや装甲車までが並んでおり、いずれもエンジンを掛けたまま待機している。

 橘藤の真後ろの車の後部座席には、杉戸平之助と並んで、大江医師の姿もある。

「今夜は「帝国グランギニョールランド」の開園前夜祭だ」車の中を覗き込んで橘藤は云った。「君たちの「カタキ」が全員雁首をそろえている」

 平之助は松五郎の長脇差を抱えて、じっと前を見つめている。

 その目は何かに憑かれたように、据わっている。

 大江は、手に拳銃を持って、虚脱したような表情で呆然と座っている。

 橘藤は傍らに立つ島田にうなずいて見せた。

 島田は足を引きずりつつ、運転席に乗り込む。

 橘藤は背後の部下たちにも手を振って指示を出すと、その助手席に乗り込んだ。

 車はタイヤを軋ませて発進し、後ろの車やトラックや装甲車が、それに続く。



 来賓の客たちが、ざわめき始めている。

 いつまで経っても、式典が始まらないのだ。

 竜宮寺大助は蒼白になっている。

 浜尾代議士の姿が、どこにも見当たらないという報告を受けたからだ。

「探せ! 先生がいなきゃ、始まらない!」竜宮寺大助は狂ったように叫ぶ。「必ずどこかにいるはず…。アッ!」

 古代バビロンの神殿の最上段に、突如としてスポットライトが当たった。そこに、人影があった。

 黒装束に身を包んだ雪華が、立っていた。 

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