第27話 雪華と雪緒(その3)

(恐ろしいぐらい幸せだった…。ホント、怖いぐらい)

 雪緒は、毎日のように心の片隅に湧く不安の黒雲をまた感じつつ、思った。

 先程、雪仁はいつも通り小学校に登校して行った。

 平凡な、毎日の光景。

 その平凡さが、何故か今日は恐ろしい。

 夫には、自分の過去はほとんどすべて話してある。

 自分がマモノであることはもちろん、すでに一度他人の子を孕み、そして産んだことも、その子を捨てて逃げ出したことも、自分の出身地のマモノの村についても、すべて、夫である大江に、雪華は話してある。  

 後悔はしていない。

 だって私は、この大江と共に、このささやかな医院を守ることに、大江と、大江の間の一子雪仁にこれからの生涯を捧げると、決意したのだから。

 大江仁一とは、この医院で知り合った。

 大江はそもそも大学病院の助手だったが、不器用な彼にはそこでの出世は見込めそうになかった。

 そのうち、大江は戦争に軍医として出征した。

 その際知り合った軍医仲間で、町医者から徴用された初老の同僚に後継者がなく、権利を譲るから後を継がないかと云われて、その通りにした。

 雪緒は、この帝都東京まで逃れて来て、名前を変えて、カフェーの女給をしていた。

 女一人帝都で生きてゆくのに、最も手っ取り早く、かつ身元を問われず出来る仕事と云えば、そんな仕事しかなかった。

 雪緒があの雪深い山奥から逃れ出て、帝都に至るまでの間には、過酷、辛酸と云うべき、並々ならぬ苦労があった。 

 それをいちいち列挙し、詳述していたら、それだけで浩瀚こうかんな一冊の本が書き上がりそうなくらいだ。

 だから、ここではそれを避ける。

 ただ一つ、それだけの苦労をしたにもかかわらず、雪緒はその本来の性質をねじ曲げることもなく、また何よりも、その美しさを失うことがなかったことは述べておこう。

 そしてまた、これは雪緒自身、自分への云い訳だと思ってはいるのだが、それら過酷な日々、そして大江と結婚してその妻となってからも、あの山奥で産み落とした赤ん坊のことは、一日たりとも忘れたことはなかったし、常にその無事な成長を祈り続けて来たのだ。

 その子が女だと云うことしか、知らないというのに…。

 さて、カフェーの女給をしていた雪緒が、ある時ふと風邪をこじらせた。

 元来丈夫だからアスピリン飲んで済ましていたのだが、三十九度の高熱が出て、いよいよいけなくなって、仕方なく、たまたま通りかかったこの大江医院に飛び込んだ。

 その素性が素性だから、雪緒は出来れば医者になど掛かりたくない。

 戦争が終わってマモノへの法律上の差別は(部分的ではあるが)なくなったとはいえ、マモノたちはみな額にドーランを塗り続けていた。

 雪緒は額に刻印がないのであるが、だからこそ、逆にマモノと知れた時に話がややこしくなるのであり、故に額にドーランを塗っているマモノ以上に用心深くなっている。

 しかし、見るからに流行ってなさそうで、しょぼくれた感じのこの医院なら、逆にマモノだろうと何だろうと、患者が来れば大歓迎かも知れないし、そうでなくとも、あまりウルサいことを云ったり、門前払いを食わせたりすることはなかろうと、高熱でフラフラする頭で深く考えることも出来ず、いわばヤケのヤンパチで、雪緒は医院の扉を開いたのだった。

 他より余分に代金を請求されても構わなかった。

 ともかく、身体がこんな状態では、女給の仕事も出来ないし、そうなれば生活が出来ない。

 案の定、その医者は何ともしょぼくれた医者だった。

 丸眼鏡で貧相で、髪がボサボサで、白衣はしわくちゃで薄汚れていた。

 その上、ほとんど何も喋らない。

 だが、この大江という医者は親切だった。

 高価な点滴を雪緒に打ってくれたが、料金は初診料しか取らなかった。

 大江は云った。

「予後を診たいから、四五日経ったらまた来なさい」

「そんなお金、ありません」

 雪緒が云うと、大江はムッとした。

「予後を診ると云っただけだ。金などいらん。そんな金が大事なら、しっかり養生することだ」

 四日後、結局雪緒は医院に行った。

 風邪は治っておらず、また点滴を打たれたが、無料だった。

「風邪が治らないのは僕の治療が悪いからだ。金など取れん」

 大江は云った。

 そんなやりとりをしている所へ、急患が担ぎ込まれて来た。

 高い所から落ちた大工が頭を打って、血まみれになっているのだった。 

 それまでヒマそうだった医院の中は、たちまちてんやわんやの大騒ぎとなった。

 雪緒は何となく帰りそびれてしまった。

 この前来た時に雪緒は気付いていたのだが、医院には大江の他には助手も看護婦もいなかった。

 点滴を打ってもらったおかげで少し調子良くなっていた雪緒は、これまた何となく成り行きで、大江の手伝いをするハメになった。

「こりゃダメだ」大江は大工の傷の具合を見るなり、情けない声で云った。「頭ガイ骨にヒビが入っているかも知れん。ここじゃ手に負えん。もっと大きい…そうだな、大学病院にでも担ぎ込まなきゃ、ムリだ」

「先生医者だろ、どうにかしてくれよ」大工の同僚らしき男が怒鳴る。「熊の野郎がおっんだら、先生のせいだぜ」

「ムリなものはムリだ」大江も怒鳴り返す。「そんなこと云ってないで、誰か人力車でも呼んで来い。僕の元いた大学病院に急いで担ぎ込めば、大丈夫かも知れん」

「よし、合点だ」

 そう云って大工の同僚の一人が勢いよく医院を飛び出す。

「一人じゃつかまらんかも知れん。君らも行け」

 大江が云うと、他に二三人いた大工たちが「よっしゃ」と一斉に駆け出して、たちまち医院内には、雪緒と大江と血まみれの大工だけになり、一挙に静寂が戻った。

「何をしている」大江が雪緒の行動を見咎めて云った。「素人が患者に手を出すな」

 雪緒は、大工の血まみれの頭に両手を置いて、祈るように目をつむっていた。

 大江に云われても、雪緒はその行為をやめなかった。

「おい、いい加減にしろ」

 そう云って雪緒の両手を大工の頭から振り払った大江は、ギョッとして絶句した。

 大工の頭の傷が、ふさがっていたからだ。 

 大江は雪緒の顔をしげしげと見た。

「君、マモノなのか?」大江のその声に、しかし咎めるような調子はない。「…これが君の術なのか」

 大江は診療室の椅子にどっかり座り込み、大きく溜息を一つつくと、髪をくしゃくしゃと引っ掻いた。

 そして「ありがとう、助かったよ」と云った。

 怒られ、追い出される、あるいは通報されると思った雪緒は、意外だった。雪緒は問うた。

「怒らないんですか?」

「いや、感謝している」大江は自嘲気味の笑みを浮かべた。「こんなケガ、僕の手には負えんし、この男の仲間が人力車連れて来ても、大学病院まで持つかどうか、かなり危うい。僕は確かに医者の免許を持っているが、実際にはそんなもの、何の役にも立たないのさ。今回のようなこともそうだし…。何より、僕は戦争に行ってそれを痛烈に感じたのだ」

 虚無的な顔になってじっと床を見つめる大江を、雪緒もまたじっと見守った。

「戦場で医者なんて、何の役に立つと思う? 負傷した兵を治療して、また負傷させるために戦場に送り返すんだ。いいや、生きて帰って来るヤツはまだマシだ。多くは死んで戻って来る。戦死者を検屍して意味があると思うか? 意味があるのは、その死が勇敢な死かどうかを、見定めることだ。つまり、本当はそうじゃなくとも、敵の弾に当たって英雄的に死んだことにするんだ。そうしてやれば、そいつの故郷のおやじやおふくろは、同じ悲しいんでも、まだ救われるんだ。あるいは、兵隊が風邪をひいたと云って、あんたと同じように診てもらいに俺の所に来る。アスピリンをくれてやるさ。だがそいつは、翌日名誉の戦死を遂げるのだ。それって、意味があるのか?」

「でも…」雪緒は云う。「それがお仕事ですから…」

 大江は顔を上げて、じっと雪緒を見た。

「ほう。君はずいぶんと現実主義者なんだな」大江はまた髪を指でクシャクシャとやる。「いや別に、皮肉っている訳じゃない。かく云う僕もそう思っている。その時はそれが仕事だし、今はこれが仕事だ…。だが時々虚しくなるだけだ。医者の免許なんか持って先生先生と呼ばれているのより、マモノの君の術の方がどれだけこの世にとって有効か知れない。そんな風にフト思っただけだ。センチメンタルだよ。君が悪い訳ではない」

「…でも、ごめんなさい」雪緒は頭を下げた。「出過ぎた真似をしました」

 それに対して大江が何か答えようとした時に、にわかにまた騒々しくなって、先程真っ先に飛び出して行った大工の同僚が慌ただしく戻って来た。

「人力車! 人力車呼んで来たぜ…。って、アレ、熊のヤツ、治ってら」

 大江はチラリと雪緒を見た。

 雪緒は血相を変えて首を横に振る。

「治ってはいない。応急措置をしただけだ」大江は云った。「まだ全然大丈夫じゃないから、やっぱり大学病院にちゃんと連れてかなきゃイカン。僕が今紹介状を書くから、急いで連れて行きたまえ…」

 …それからというもの、雪緒はちょくちょく、大江医院を訪れるようになった。

 診てもらうのではなく、お土産を差し入れたり、勝手に掃除したりとか、そんなことだ。

 恋というより、同情、共感…。いや、感応、とでも云った方が正しかった。

 ここに自分の居場所があると、雪緒は感じたのだ。

 大江も、それを拒否しなかった。

 それから三カ月もしないうちに、雪緒はカフェーを辞めて、大江医院に住み込んでいた。

 同時に、大江とも結ばれた。

 自然な成り行きだった。

 ただし、籍は入れていない。

 マモノに対する一部の差別はなくなった、とは何度も書いているが、実は、一般人とマモノの婚姻だけは、たとえそれが「名誉臣民」であっても、認められていないのだ。

 ただこの民法上の規定では、内縁関係までは否定しないのだが、雪緒はそもそも戸籍上では行方不明者なので、どうあれ法律上は認められない関係なのだ。

 もっとも、世間というものは案外そこまで勘繰らないもので、と云うよりそんなことどうでもいいので、近所の連中にとっては「あの流行らない医者の先生の所に、美人なカフェーの女給さんが嫁さんに来た」というぐらいのことであり、「まあ男と女のことだからねえ」てな具合でクスクス笑い合う程度のことでしかなかった。

 だから、雪緒が来てから、特にケガなどの治療で評判になっても、それで雪緒のことを疑うようなものはおらず、「嫁さんが来てあの先生張り切るようになって、腕が上がって評判も上がった」と云われた。

 ま、どうあれ大江医院はささやかなれどそれなりに繁盛し、おかげで子供を作って育てられる程度の生活力は得られるようになったのだ。

 ちなみに、子を作るに当たっては、さすがに籍がないという訳にはいかず、そのため雪緒は戸籍を偽造し、結界を作る術の応用によって、役所に対し何とかそれを誤魔化すことに成功したのだが…。この辺の話は語り出すとあまりに煩雑になるので、割愛する。

 …そんなことを、大江医院の表を掃除しつつ、雪緒は思い出していた。 

 その間に、雪緒は病室に面した裏手から、往来に面した正面へと、移動していた。

 この十数年、幸福だった。

 その幸福に不満のあろうはずもないが、同時に、それまでの己のことを、そして己の本来の姿のことを思うと、その幸福は出来過ぎであると思えるのだった。

 いつかどこかでしっぺ返しが来るのではないか…。

 この幸福が突然終了する日が来るのではないか…。

 そういう不安と恐怖が、ほぼ毎日のように、雪緒の心中を襲うのだった。

 特に最近、新聞の紙面に竜宮寺大助の名を見出した時は、戦慄とも、悪寒ともつかぬものが背中に駆けあがって来るのを感じた。

 大江にも語っていない、あのこと…。

 雪緒のあらゆる記憶の中で、もっとも封印しておきたい、あのこと…。

 雪緒の不安と恐怖が、急に具体的な、身近のものとして、立ち迫って来たように思われた。

 そして、雪華と丹波の突然の登場…。

 それは、嬉しさより動揺を、雪緒の心に与える。

 日常に何とか戻ろう、戻ろうとしても、心のざわめきは続き続けている。

 突然、雪緒はまた、戦慄とも悪寒ともつかぬものを、感じた。 

 ギョッとして振り返った雪緒は、驚愕し絶句し、竹ぼうきを取り落とした。

 竹ぼうきは乾いた音を立てて路面に転がる。

 目の前に、雪緒がこの世で最も会いたくない者が、立っていた。

 竜宮寺大助が、黒のソフト、黒のコート、黒のマフラーといういでたちで、薄笑いを浮かべて立っていた。

 気のせいではなかった。

 幸福は本当に突然、失われた。

「雪緒、久しぶりだな」今まで雪緒がまったく心の中から消し去っていた声が、生々しく、馴れ馴れしく、語りかけている。「相変わらず、美しい」

 雪緒は硬直したまま、動けない。

 声も出ない。

 竜宮寺大助の傍らには、着物姿の無表情な女が経っている。

 その女の右袖から、銃口が雪緒の方に向いている。

 女は時折チロチロと、ヘビのように先の二つに割れた舌を覗かせる。

「こんな所で立ち話もなんだから、単刀直入に、手短に行こう」竜宮寺大助はコートのポケットに手を突っ込んだまま云う。「君の息子さん、さっき元気に学校へ行ったはずだが、こちらで預からせてもらった」

 雪緒は頭の中が純白になった。

 あの雪の中、滝の上に立ち尽くした時の光景が、瞬間脳裏に蘇る。

 雪緒の口辺が、震え出した。

「この間、この近所の耶蘇ヤソの牧師館が全焼した火事があったろう。牧師夫妻が死んでしまった」竜宮寺大助は薄笑いのまま云う。「あれと同じことになりたくなければ、そして君の息子を無事に返して欲しくば、私の云うことを聞け。…ここじゃ何だから、中へ入ろうか」

 着物の女が銃口を動かして、雪緒を促す。

 雪緒はフラフラと、熱に浮かされたようにそれに従い、先頭に立って医院の入口に入る。

 竜宮寺大助と女装のヘビ吉がそれに続く。

「一体何だ」大江が入口に現れた。「この人たちは?」

 雪緒が何か云おうとした。その時だった。

 背後でシュッと音がして、次の瞬間、大江の額のど真ん中に赤い穴が開いた。

 目を大きく見開いたまま、大江は仰向けざまに倒れた。

 雪緒はつんざくような悲鳴を上げたが、ヘビ吉が直ちに羽交い絞めにして口を押さえる。

「雪緒」竜宮寺大助はニヤニヤ笑いのまま云う。「君の助けが是非とも必要でね。で、早速君の素晴らしい術を、披露してもらいたいのだよ」 

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