第28話 悲母観音と炎般若(その1)
雪国の冬は早い。
山々はまだ色鮮やかな紅葉真っ盛りだというのに、空からもう白いものがチラチラ舞い落ちて来た。
その山々の中腹の一角に、木々の間に埋もれるように、ささやかな墓地がある。
その墓地の真ん中にある墓の前にぬかずいて手を合わせる、雪華と丹波の姿がある。
真新しい花束と線香が手向けられている。
線香の煙が木立ちの間にたなびいて天に消えてゆく。
こうして毎日、この墓地に花と線香を手向け、拝むのが雪華たちの日課になっていた。
やがて、二人は立ち上がった。
雪華は墓地の端に行き、下を見る。
そこには、この墓地同様にささやかな寒村の風景があった。
この墓地は、この村に生まれ、死んでいった代々の人々の、共同墓地である。
「不思議ね」雪華は云った。「もう人は誰も住んでいないのに、そんな風には見えない。あの家々を訪ねれば、誰か居そうに思える」
「長い間、ここに住む人たちがこの土地に掛け続けた結界が、いまだに余韻のように残っているからだ」丹波は云った。「長い間、同じ場所、同じモノに術を掛け続けていると、いつしかそれが対象である場所やモノにも、
「…私たちは、いまその結界の余韻に守られている訳ね」
雪華が下を見下ろしたまま云うと、丹波は「そうだ」と答えた。
「お母さんは」雪華は言葉を継ぐ。「いつまでここに暮らしていたの」
「十七だ」丹波は即座に云った。「今のおまえと同い年だ。雪坊」
…そう、ここは大江雪緒の生まれ故郷の村なのだった。
すなわち、橘藤伊周が丹波に語った、「驚天動地の驚愕の秘密」とやらを抱えている村だ。
だが、ここへ来たのは、大江雪緒に教えられた訳ではなく、丹波の考えであった。
そして、何故この村が廃村になったのか、その理由を雪華は丹波から聞かされた。
…雪華は丹波の方を見て、何か言いたげに口を動かしかけたが、結局、何も云わなかった。
丹波はそれを見ていたが、こちらもやはり何も云わない。
そして、どちらからともなく歩き出し、墓地から麓へと至る急な坂を、下って行った。
「お…雪か」窓の外を見やって彫鉄が呟いた。「道理で冷える訳だ。どれ…」
彫鉄はそれまでかき回していた、味噌汁の煮えている鍋を竈から外して、ちゃぶ台の傍らの破れ畳の上に置いた。
竈ではもう一つ、飯を炊いている鍋が勢い良く湯気を立てている。
彫鉄はあばら家の入り口から、その馬面に猿の造作と云う顔を突き出して、「おうい、メシが出来たぞう」と大声で呼ばわる。
彫鉄の声は、山あいにたたずむ廃村いっぱいに広がる。
廃村の一角に、雪華と丹波の姿がある。
黒装束に手甲、脚絆という戦闘姿の雪華は、右腕を顔の正面に縦に構え、左手は大地を鎮めるように腰の辺りで下に向け、右脚を前に、左足を後ろに引いて、腰を落とし、射るような真剣なまなざしを正面の丹波に向けている。
まったく非のうちどころのない、「手刀術」正眼の構えであった。
ちなみに、先程山腹の墓参りをしている時の雪華も、この姿であった。
一方、丹波は相も変わらずの着流し姿で、こちらも先程の墓参りの時と姿は変わらない。
違うのは、両手に拳銃を持っていることだ。
そして、右の拳銃をまっすぐ雪華に向けている。
パン! 丹波が拳銃を撃ち、キン! 雪華の右腕に火花が飛ぶ。
雪華はすぐさましゃがみ、跳ね返された弾丸が体勢を立て直して、己の眉間を狙って来るのを再び右腕で受ける。
弾丸を真っ二つにしたかったが、そこまでは及ばず、再び雪華が体勢を立て直す時を稼げる程度に、弾丸をさらに遠くに飛ばしただけであった。
だが丹波は容赦なく、続いて左手の拳銃を雪華に向けてぶっ放した。
瞬時の逡巡も許されない。
雪華は一息に高く跳んだ。
二つの弾丸が雪華の眉間を狙って、弧を描いて飛んで来る。
それより一瞬早く、雪華は空中でさっと身体を丸めた。
間一髪、たった今まで雪華の眉間の存在していた虚空で、二つの弾丸はぶつかり合った。
雪華は身体を丸めたままクルクルと二回転して、地上にしゃがんだ姿勢で降り立った。
その傍らに、宙でぶつかってひと塊りになった弾丸が、ポトリと落ちて来た。
雪華が顔を上げると、いつの間にか丹波は抜き身の長脇差に持ち替えて、こちらに迫っていた。
今度も容赦なく、丹波は長脇差を振り上げ、思い切り雪華の脳天目がけて振り下ろして来る。
雪華はとっさに後方へとバク転する。
それをさらに追いつめ、丹波は二撃、三撃と抜き身を振り下ろす。
雪華はどんどん後方へバク転してゆくが、突然スッと身を縮めると、パッと跳び上がって丹波の頭上高くクルリと一回転してその背後にタン! と降り立つ。
丹波は振り向きざまに抜き身を振り下ろす。
雪華の右腕がそれを受け、また激しく火花が散る。
丹波の力の入れ具合は本気であった。
丹波の目には殺気が漲っている。
雪華も本気だ。
本気だったが、力の差はどうしてもある。
雪華の右腕がガクガクと震えて来る。
丹波の刃が、次第に次第に、右腕を押し、雪華の眼前に迫って来る…。
「おうい、メシが出来たぞう」
間延びした彫鉄の声が聞こえた。
「もう、彫鉄さんの馬鹿」
雪華は三人分の椀に、熱々の根深汁をよそいながら、ふくれっ面で彫鉄に云った。
「何だい」彫鉄は甲斐甲斐しくタクアンを刻む手は休めずに云う。「馬鹿とは聞き捨てならないね。そりゃ確かに俺は馬面だが、鹿は余計だろ」
「だって」雪華はふくれっ面のままだ。「おういメシが出来たぞうって、あんなに呑気に云うんだもん。私、丹波さんの長脇差受けて、死ぬか生きるかって所だったんだからね。危うく腕を滑らせてたら、今頃首がなかったわ」
「そんなこと云ったって、なあ、丹波さん」彫鉄は呑気に間延びした声で云う。「メシが出来たってのを、他にどう云えってんだ」
丹波は三人分の茶碗に麦飯をよそいながら、苦笑してそれを聞いている。
彫鉄が料理する時は他の二人は飯と汁をよそう。
雪華が料理する時はこれまた他の二人がその役目であり、丹波が料理する時もまた然り。
毎日料理当番は交替であった。
丹波が料理するのを見るのは、雪華は初めてだった。
さらに意外だったのは、その丹波の料理が結構おいしいことだった。
料理といっても、基本一汁一菜、質素なものであった。
麦飯、汁、一品のおかず、香の物、これだけであった。
朝、昼、晩、三食同じであった。
違うのは、汁の中身とおかずの内容で、香の物は常にタクアンである。
これは彫鉄が自宅で漬けてたのを持って来たのだ。
ちなみに今日の昼は、汁は先程述べたように根深汁、おかずは川で釣って来たヤマメを焼いたのだ。
三人は、あばら家のボロダタミの上に置かれたちゃぶ台に仲良く着いて、「頂きます」と云い、メシを食う。
もう十日以上もこうして暮らしている。
朝、昼、晩の食事と、毎日欠かさぬ山腹の墓地へのお参りと、風呂に入って、そして寝るの以外は、雪華と丹波はずっと「手刀術」の鍛錬に明け暮れている。
彫鉄はいわば世話係としてついて来た。
あの日、霧深い早朝、気を失ったままの雪華を背負って訪れた丹波の姿を見て、何の説明も受けていないのに、彫鉄は即座に理解した。
理解すると同時に、次の行動は決まった。
彫鉄は玄関の軒先に「当分ノアイダ休ミ〼」という日頃用意してある木札を下げ、彫物の道具をさっさとまとめて風呂敷包みにして背負い、漬けてあるタクアンも三本ばかり持ってゆくことにした。
丹波がどこに行くのか知らないし、彫物の道具が必要な訳でもないし、タクアンだって同様だ。
ただ彫物の道具は商売道具だから留守宅に置いておくのは心配だし、タクアンは好物で、しかも自分が漬けたのしか口に合わないから、一緒に持ってゆくのだ。
ちなみに、彫鉄もまた、「名誉臣民」ではあるのだが、それはもちろん彫物師としてではない。
彫物の腕前など戦場では何の役にも立たない。
彫鉄は、「魔薬調合」の術を持っているのだ。
あらゆる有機物、無機物の特別な調合と、それに魔力を与える特別な呪文を伝承しているのだ。
戦地ではその術は大いに活躍した。
戦地において、丹波、花澄無常、彫鉄の三人は人呼んで「魔俠独立遊撃隊」として数々の武勇伝を残しているのだが、それはさておき。
彫鉄は、だから彫物師としての仕事と技術は、実はマモノであることとそれほど関係がない。
ただ、彫物を施す時に、痛みを和らげるのと、特殊な彫り物をする場合にだけ「魔薬」を使う程度だ。
ただし、その「魔薬」の調合法と、それに必要な呪文を記した書物は大事に所蔵してあり、当然ながらそれも風呂敷包みに入れて、この山奥に持って来ている。
「やっぱり、右腕だけで戦うのは、無理がある」雪華はタクアンをパリパリ齧りながら云う。「この前の時もそうだった。一対一で戦うならともかく、大人数だと、右腕だけじゃ駄目。とても足りない」
「雪ちゃん」彫鉄が麦飯を喰らう箸を休めて云う。「やっぱり、どうしても、その…キッタハッタをしなきゃなんないかい?」
「当り前よ」雪華はピシャリと箸をちゃぶ台に置いて、キッとなってキッパリと云う。「彫鉄さんも見たでしょ? 背中にこんな傷を負って、これでまともな世間に戻れると思う? もう一度見る?」
彫鉄は慌てて首を横に振る。
丹波が彫鉄の家に雪華に担ぎこんだ時に、その傷は見た。
そのあまりの痛々しさに彫鉄は思わず目を背けてしまった。
あの白いきめ細かい肌の上に、右上から左下にかけてスウッと、ゆるやかな弧を描くように、赤黒い筋が入ってしまっていた。
まるで、一級の絵画に剃刀で傷を付けられてしまったような、そんな痛ましさがあった。
「今度こそ」再び箸を取って、雪華はまたタクアンをパリパリ齧り始める。「私の手でカタキを取る。だから丹波さん、先回りしちゃ駄目よ。それにしても、このタクアン美味しい。彫鉄さん、タクアン漬けるの上手ね」
ちなみに雪華は、黒装束から着替えて、地味な灰褐色の紬を着ているのだが、これは大江医院を辞去する際に、大江雪緒が渡してくれたものだ。
このあばら家にたどり着いてようやく目覚めた雪華は、丹波からそうと聞かされて以来、「手刀術」の鍛錬時と夜寝る時以外は、ずっとこの紬を着ているのだった。
こんな服装をしていると、まったく普通の娘にしか見えない。
戦うだのカタキだのといった猛々しい話が、まったくそぐわないなぁと彫鉄は心の中で溜息をつく。
丹波の方は何も云わない。
彫鉄としては、自分なんかよりむしろ丹波に、雪華を諫めて欲しいのだが、この地に来て以来、丹波がそうする気配は微塵もない。
それどころか…。
「やはり」丹波が口を開いた。「無常和尚から聞いたことのある、アレをやらなきゃなんねえかな」
雪華はその言葉を待っていたかのように、身を乗り出し気味にうんうんとうなずいていたが、何のことかわからない彫鉄は訊いた。
「何だいアレって」
「思念飛空法ってヤツよ」雪華は好奇と喜色に満ち満ちた顔で丹波に代わって答える。「通称、飛ばし斬り」
「エッ、と、飛ばし斬り…」彫鉄は思わず大声を出した。「そりゃ、危険過ぎるぜ…。だってありゃ、一歩間違えば自分がぶった斬られて死んじまうって技だぜ。無常さんだって、使ったことはないって云ってた…」
「でもその代わり、いっぺんに大勢の敵を倒せるわ」雪華は急き込んで云う。「ぜひ、やりたい。その技を、身につけたい」
彫鉄は丹波の方をオロオロ顔で見た。
頼むよ丹波さん。やっぱり駄目って云いなよ…。
「いいだろう」丹波は云った。「ただし、今彫鉄が云ったように、ウカウカしてしてるとてめえが真っ二つになりかねねえシロモノだ。もしかしたら、カタキ取る前に、おまえがオダブツになるかも知れねえ。その覚悟はあるのか」
「あるわ」雪華は凛としてキッパリ云った。「それにカタキ取る前に、オダブツになんか絶対ならない」
雪華はじっと丹波を見据えて、そして、ニッと笑った。
思わず彫鉄はゾッとして背中が粟立った。
それは、血に飢えた獣が獲物を見つけた時のほくそ笑みであるかのように、彫鉄には思えたのだった。
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