第26話 雪華と雪緒(その2)
「この子のためには、私がいると却って足手まといになると思ったのです」雪緒は声を震わせて答える。「丹波さんにこの子を託すのなら、安心だと思った」
「しかし」丹波はさらに問う。「何故逃げた」
「赤ちゃんと、そして…」雪緒は泣きぬれた目で、じっと丹波を見る。「あなたのために、生きなければならないと思いました。何を云っても、今さら云い訳ですが」
大江が、ハッとして顔を上げ、丹波を見る。
丹波は何かを云いかけて首を横に振り、言葉を呑む。
そして別のことを、丹波は云った。
「皮肉なもんだ。その時のあなたの気持と、俺が今この子を連れて行こうとしている気持ちは、多分似たようなもんだ。この子はここにいると、あなたたちにとって極めて厄介な足手まといにならざるを得ない。おそらく敵が血眼になって探すのは、そっちの男の人より、この子だろう。だからこの子は、もっと遠くに匿わなきゃならない」
「だが…」
云いかける大江医師を、雪緒が手を上げて制した。
「この子の敵って、あの人なのですか」
雪緒の問いに、丹波は無言でうなずく。
「そう…」雪緒は溜息混じりに云う。「遠くに匿うっておっしゃったけど、心当たりはあって?」
「いや…」
丹波は首を横に振りかけ、フト思い直し、「いいえ、大丈夫です」と云った。
「わかりました」雪緒は涙を拭って、キッパリと云う。「もはや、引き止めません。私には、その資格がありません。…この子の傷は、血が出ない程度には、ふさぎました。でも、もっときちんと直すのなら、もっと時間が掛かります。傷ついてから時間が経ち過ぎていて、さらには無理をし過ぎています。一生、傷痕は残ってしまうかも知れません」
雪緒は、ことさら冷静な口調で云った。
丹波はうなずき、云った。
「もう夜が明ける。愚図愚図してられない。行きます」
空が、白みかけていた。
何かに耐えるように目をつむって、その言葉を聞いていた雪緒は、目を開くと、「待って下さい」と云い、奥から急いで自分の着物を持って来た。
選んでいるヒマなどないので、タンスからありあわせに適当に出したものではあったが。
「せめて、これを着せてやって下さい」
そう云って雪緒は、雪華にその着物を着せてやった。
着終わると、丹波は雪華を背負った。
雪華は幼女のようなあどけない顔をして、無心に眠っている。
「あの」雪緒が切羽詰まって問いかける。「この子の名前は?」
「雪華。雪に華やかと書いて雪華です」
丹波は雪緒の方は見ずに答える。
「雪華…ちゃん。いい名前ね…」
「この子が聞いたら、きっと喜びます」丹波はようやく雪緒の方を見た。「世話になりました。それじゃ…お元気で」
丹波は雪華を背負っていることもあり、ほんのちょいと会釈をすると、足早に大江医院から立ち去っていった。
アッという間もなかった。
慌てて雪緒は後を追ったのだが、霧の深い朝でもあり、もう雪華と丹波の姿は、霧に呑まれて見えなくなっていた。
「君」大江が雪緒に問うた。「これでいいのかい」
「いいのかいって」雪緒はグッと言葉に詰まり、涙溢れる目でキッと大江を見た。「今の私には、あなたや雪仁との生活があるのよ。それを…犠牲にしろっておっしゃるの?」
そう呻くように云うと、雪緒は大江の胸に取り縋って、さめざめと泣きだした…。
…鏡台の前で身支度を整えると、大江雪緒は立ち上がる。
さあ、「非日常」に耽るのはここまでだ。
もうかけがえのない「日常」に戻らねばならない。
大江に云ったように、今の雪緒には守らねばならないものがたくさんあるのだ。
悪いが、丹波や雪華のことは心の隅にそっとしまっておくのだ。
今日もいつもの朝、いつもの一日が始まるのだ…。
大江医院の診療室の奥には、たった三室ではあるが病室がある。
しかしそこに本格的に入院する患者はほとんどおらず、たいがいが、点滴を打ったりするために使うか、一時的に一日二日入院したのち、もっと大きな病院へ移るかで、平之助のように何日もここにいるのは、大変に珍しい。
その平之助は、寝巻代わりの浴衣の前をはだけて、腹の傷の痕を撫でて、眺めやっている。
平之助が気付いた時は、大型ヨット上での乱闘騒ぎから、すでに三日が過ぎていた。
まったく見知らぬ場所で目覚めた平之助は、当初自分が死んであの世とやらに行ったのだと思い込んだ。
大江医師と雪緒が現れて、平之助に事情を説明した。
平之助は当然ながら、初めのうちは大いに警戒し、疑ってかかり、二人を信用しなかった。
すぐにでもここから出せと駄々をこねた。
しかし、二人の説明を聞くうちに、平之助は大人しくなった。
二人が嘘をついているようには見えなかったし、窓から外を見て、ここが例のあんみつ屋のはす向かいの医院だと知ったのも、平之助が安心した理由だった。
だが、平之助がこの医院…いや、大江医師と雪緒を決定的に信用する気になったのは、ここへ自分を連れて来たのが、他ならぬ雪華だ、ということだった。
雪華が選んだ医者なのだから、間違いのあろうはずがないのだ。
しかし医院には、もはや雪華の姿はなかった。
もちろん丹波の姿もない。
二人はあの晩のうちに…すでに空は白みかけていたが…ここを出て、いずこかへ消えたらしい。
正確には、雪華は気を失ったままで、丹波に背負われて行ったのだが。
…平之助は、丹波が雪華を背負って大江医院を辞したことは聞いたが、雪華とこの医院の関係までは聞いていない。
大江も雪緒もその点は秘した。
平之助は、この医院があのあんみつ屋のはす向かいにある、というだけで何となく納得してしまっている。
それより雪華がここに自分を運び込んだ、という事実の方が、平之助には重要なのだった。
不思議そうにためつすがめつ、自分の腹の傷痕を見やる平之助の病室に、大江医師が入って来た。
「どうかね、気分は。良く眠れたかね」そう云う大江医師は眠たげに眼をしばたいている。「で、まだ君はその復讐とやらに、執念を燃やしているのかね」
昨晩平之助は、大江医師の許可が出るまでこの病院にいることを、ようやく了承したのだ。
大江夫妻を人間として信用にはするものの、自分は退院して、いや、ここから抜け出してでも、死んだ親父や兄貴や若林のカタキを取らなければならない。
それはあなたたち夫妻を信用することとは別のことだ。
だから今すぐにでも退院させて欲しいと、平之助は懇願したのだった。
駄々をこねた、と云っても良いが。
「君の気持はわかるがね」大江はなだめすかす。「しかし復讐というのは物騒だし、建設的ではないね。もっと違う方法はないかね。そうだな、例えば…漁師たちを組織して、その公演だか遊園地だかの、建設反対運動を起こすとか」
「反対…ですか」平之助は呆気にとられた。「デモをするってことですか」
「まあそうだ」大江は髪の中に指を突っ込み、掻き回す。「どっちにしろ非合法だが、復讐より反対運動の方が、社会的共感は得やすいと思うよ。革新系の政党や政治家も、応援してくれるだろう」
平之助は笑い出してしまった。
そんな発想は、考えたこともなかった。
親父たちの喪も明けぬのに、大笑いするとは不謹慎だが、これまでの緊張が不意にほぐれて、いや、だからこそ爆笑してしまったのだ。
涙を拭いながら、平之助は云う。
「わかりました。考えておきます。…アッ、痛ッ、痛ッ」
笑い過ぎて、腹の傷が痛くなったのだ。
大江の方もまた、実は平之助もマモノなのではないかと疑っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
この青年はまったく見た通りの、素直だがいささか単純で、熱しやすいが小心でもある、どこにでもいる平凡な青年だ。
大江は、この青年がもはや本気で復讐など考えていないことを見抜いていた。
ちなみに、大江夫妻は平之助が杉戸組の跡取りであることを既に承知している。
丹波がせっかく秘したのに、平之助があっさりバラしてしまったのだ。
それだけ、平之助が大江夫妻を信用しているということではあるが、大江にとってはすでに充分危険な状況の上に、も一つ危険が上乗せされたようなものであった。
かくなる上は、その危険な状況を少しでも危険ならざるものへと変えるしかない。
先の平之助への提案も、その試みの一つだった。
で、本日の朝である。
平之助は入って来た大江医師に向かって、照れたような笑みを浮かべた。
「いいえ、執念なんて」平之助は云った。「ただ、復讐する方法にも、いたずらに刃を振るってやるばかりじゃないな、とは思いました。例えば先生の云った、反対運動をするとか、軍か警察に入って連中の悪行を暴くとか、新聞や雑誌の記者になるとか…」
この前の乱闘ですっかり気持ちがビビってしまっているとは、さすがに平之助は口が裂けても云えなかったが、大江の方はそんなこととっくに見抜いている。
反対運動の話なんぞ持ち出したのは、そうすれば、平之助の追いつめられた気持ちが少しは楽になるだろうし、ひいては彼がまた思いつめた行動に出ることもなくなり、大江医院にとっての危険な状況も減るだろう、と見たのだ。
図星だった。
平之助の表情は一晩でずいぶんと晴れやかなものになっている。
マア、実際はそれだけでなく、そもそも大江が血腥いキッタハッタの話が嫌いだということもあるのだが。
「でも先生」平之助は云った。「この傷、ずいぶん治りが早いように思えますが。普通、刺し傷ってこんなに早くふさぐものでしょうか」
「ああ、いや、それは…」大江はこの質問を、他の者からも、これまでもう何度も受けたのだが、その度に、いくばくかの良心の呵責と動揺を伴いつつ、結局いつも同じ答えを返す。「君の身体が、とても健康だという証拠だよ」
そう云って大江はチラリと窓外に目をやる。
窓から、表の通りを竹ぼうきで掃く雪緒の姿が見える。
すると、雪緒がその視線に気付いて、ニッコリ微笑む。
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