第25話 雪華と雪緒(その1)

 パチパチと焚火の火がはぜる。

 それ以外は、一切が夜の闇の中に沈み込んでいる。

 音という音は、この小さな小屋の周囲を覆い尽くす雪がすべて呑み込んでしまっているから、この焚火のはぜるかすかな音も、外にはまったく聞こえていない。

 雪緒がその闇の中で意識を取り戻して、もうだいぶ時間が経っていた。

 意識を取り戻した雪緒が闇の中でまずしたことは、己の腹に触れてみることだった。

 それから、そっと起き上って周囲を見回した。

 焚火のわずかな揺らめく光の中に、二人の男と一人の赤ん坊が寝ているのを見て取った。

 男の一人が丹波であることを認めると、雪緒はたちまちホッとした。

 と同時にたちまち決意も固まった。

 雪緒は赤ん坊の顔をジッと見つめた。

 そっとその無心に眠る柔らかい頬を撫でた。

 そして、その首に両手を掛けた。

 が、結局手を離した。

 乳房が急に張って来て、痛みすら覚えたのだ。

 雪緒は右の乳房を出すと、赤ん坊を抱き上げた。

 その際、赤ん坊が女の子であることを確かめた。

 赤ん坊は眠りから急に目覚めさせられ、火のついたように泣き出したが、眠る二人の男は目覚める様子がない。

 赤ん坊を抱き上げると同時に、雪緒は自分と赤ん坊の周囲に結界を張ったのだ。

 乳房にむしゃぶりつくと、赤ん坊は泣きやみ、あとは猛烈な勢いで乳を吸い始めた。

 その姿を見て雪緒は涙した。

 やがて。

 赤ん坊は乳首から口を離し、くうくうとまた眠りについた。

 雪緒は赤ん坊をまた寝床に戻し、はだけた胸を仕舞うと、立ち上がった。

 雪蓑を着て、眠る三人に向かって手を合わせる。

 雪緒はそっと炭焼き小屋を出て、そして二度と戻らなかった。



 それから十七年経つ。

 忘れるはずもない。

 大江雪緒は、鏡に映る己の顔を見つめながら思った。

 丹波が突如姿を現した夜…もう明け方に近かったが…が明けて、また夜が来て、朝が来て、夜が来て、朝が来て…。

 指折り数えてみれば、もう一週間も経っている。

 早いものだわ。

 雪緒は独りごちて小さく溜息をつく。

 雪緒の心のざわめきは、ずっと続いている。

 あの晩は、突如としていろいろなことが起こり過ぎた。

 丹波が突然、十七年ぶりに目の前に姿を現したのも、もちろん雪緒の心をざわめかせているのだけれども、それよりあの娘、雪華という、あの娘のことが…あの娘の表情、あの悲壮な、唇を噛んでじっと虚空を見つめていた表情、気を失って倒れて、丹波の腕に抱え上げられた時の、安心したようなあどけなさの残る顔付きが…雪緒の脳裏から消えない。

 そして、あの赤ん坊と雪華がどうにもうまく結び付かないのも、雪緒の心をなおのことざわめかせる。

 雪華は、丹波の姿を見て、心と身体の緊張がいっぺんに解けて、卒倒したのだった。

 まさにぱたーんと、棒が倒れるように診察室の床に倒れた。

 すると丹波は、目にも止まらぬ速さで雪華に駆け寄り、両腕に抱え上げた。

 雪緒は、まずその物音に驚いて、平之助の腹に向けていた思念が途切れてしまい、振り向いた。

 そして、もう一度驚いたのだった。

 丹波が、雪華を抱えて、立っていたからだった。

 それはまるで、自分の宝物をそっと抱える子供の姿のようだった。

 あるいは…やや年の離れた恋人同士の姿でもあるように…。

 もっとも、そんなのは雪緒が後から思い返しての感想で、その時はただ驚いた…いやいや、そんな云い方では足りない。

 驚愕し、驚倒し、絶句した。

 唖然として、丹波の顔をまじまじと見つめた。

 丹波の方は、さして驚いた風もない。

 昔と変わらぬ、ポーカーフェイスなのだった。

 雪緒の方は幾分、いや、かなり老けたというのに、丹波は面影もさして変わらぬ。

 もっとも、それは雪緒が文句を云える筋合いのことではない。

「…お久し振りです」丹波は雪華を抱えたまま、武骨に笑みも見せずに会釈する。「こいつを…寝かせてやりたいんですが」

 あいにく、診療室に寝台は一つしかなく、今それは平之助が占拠していたが、大江医師が来て、雪緒に手伝うよう促して、平之助の身体を左側に寄せた。

 大江は空いた右側に雪華を横たえるよう丹波を促す。

 丹波がその通りにしようとすると、大江は仕草で丹波に、雪華の身体をうつ伏せにするよう指示する。

 丹波はその通りにして、そしてようやく雪華の背中の傷に気付いて、大きく目を見張る。

 こうして、狭い寝台の上に雪華と平之助二人の身体が横たえられた。

「まるでロミオとジュリエットの終幕フィナーレだな」思わずそう呟いた大江医師は、慌てて取り繕うように訊く。「君らは、知り合いかい」

 大江医師は雪緒と丹波を交互に見た。

「ええ…」

 二人は同時に返事をした。

「丹波といいます。自分も、マモノであります」

 そう云って丹波は自分の額をゴシゴシこすった。

 ドーランが取れて黒く丸い刻印が現れた。

 大江は少し驚いたように、「そう、あんたが」と云ったが、それ以上何も云わず、雪華の傍らに屈み込んだ。

「すまないが、彼女の上着を脱がすよ」大江が云うと、雪緒が雪華の黒装束の上着を脱がせた。「やっぱり刀傷だね。よく今まで気丈に耐えていたものだ。並みの精神力じゃないね」

 云いながら大江は背中の傷を診て、そこに消毒薬を含ませたガーゼを当ててゆく。

 普通なら、こんなことすれば傷に薬が染みて気を失うほどだろうが、幸か不幸か、雪華はもう気を失っているから、何の抵抗もない。

 もっとも、雪華なら気を失わずに耐えることだろうが。

「傷は、消えるでしょうか」

 丹波は立ち上がった大江に訊いた。

「何せ、傷ついてからだいぶ時間が経っているようだからね」大江はボサボサの髪に指を入れてモシャモシャと掻く。「まあ、あんたはマモノで、雪緒とも知り合いらしいから、雪緒この人がどういう能力を持っているかも、知っているんだろうね」

「ええ、承知しています」丹波は声を低めた。「それを使うんですか」

 大江医師はフッと溜息をつき、自嘲気味な笑みを浮かべる。

「僕は正直、あまり腕のいい医者じゃないんだ。だけどね、この近所じゃいっぱしの名医扱いなんだよ。この人のおかげさ」

 傍らでそれを聞いている雪緒は、うつむいて首を横に振る。

 否定なのか、恥じらいなのか、謙遜なのか、多分その全部が含まれた仕草なのだろう。

「しかしそれでも…」大江は雪華の背中を見下ろす。「傷が消えるかどうか…。君、どうかね」

 大江に云われて雪緒も首を傾げる。

 その顔を見て、丹波が何か云いたそうに口を動かすのを、雪緒が見咎める。

「…何ですの」

「いや、何でもない」

 丹波はそう云って小さく首を横に振るのだが、もどかしそうな表情は残る。

「何か云いたいことがあったら、云ったらいい」大江も訝しげなまなざしを丹波に向ける。「僕に遠慮することはない」

「いや、いいです」丹波はキッパリ云ってポーカーフェイスに戻る。「それより、平之助さん…いや、そっちの若い人はどうです」

「そっちはとりあえずもう大丈夫だ」大江が云った。「この人のおかげで、傷はもうふさがっている。匕首を抜かずに来たのも良かった。まあしばらくは入院してもらわなきゃならんが…」

「そうして下さい」丹波が云う。「この男の人を、しばらくの間面倒見てやってもらえませんでしょうか。私がこんなこと云えた義理じゃないのは重々承知です。しかし、今表に出ちゃあ、この人にはとってもマズいことなんです」

「つまり」大江はまたボサボサの髪に指を突っ込む。「この人をかくまえということかね」

「ええ、そうです」

「入院費はどうなるのかね」大江はチラリと雪緒の方を見て、小さく咳払いをして云う。「まあ、いいか」

 すで雪緒は、雪華の背中の傷の上に手を置いて、先程平之助にしていたのと同じように目をつむって、祈るようなかたちになっていたのだが、不意にハッとなって、丹波の方に振り返った。

 丹波は雪緒にうなずいた。

 雪緒は思わず口を両手で押さえ、その内で「ウッ、ウッ」と声にならぬしゃっくりのような音を洩らす。

 雪緒の目にたちまち涙が溢れ、ハラハラと雪華の白い肌に降りかかる。

 雪緒は震える手で、押し戴くように、その白い肌の上に無残に刻まれた右上から左下にかけての傷の上を撫でた。そしてまた、今度は問い詰めるように、滂沱と落涙するまなざしを、丹波に向けた。

「俺は出先からまっすぐここに来たんで、詳しい事情はわからない」丹波は云う。「ただ、この子はこっちの若い男の人を助けて、守って、こんなことになったんだと思う。この子はそういう子だ」

 雪緒は突然の、この激しい感情の爆発に、大江医師は驚くとともに困惑していたが、やがて、こちらもハタと悟ったらしい。

「もしかして、この子が、君の云っていた…」大江は丹波を見た。「そうなのかい?」

 大江が事情をあらかた知っているらしいので、丹波はうなずいた。

 すると大江も感慨深げに「そうか…」と云って、雪華と雪緒を見やった。

「どうして」雪緒は呻くように云った。「どうしてこの子は、こんな傷を負ってるんです」

「それは…」丹波は云いかけ、云い淀み、そして云った。「それは知らないでいた方が、これ以上こちらの迷惑にならないと思います」

「馬鹿を云うな」大江が、怒鳴りはしないが、怒りを大いに含んだ口調で云った。「ここまで厄介に巻き込んでおいて、今さら何だ。我々には知る権利と義務がある」

 丹波は雪緒の方を見た。

 雪緒も丹波の方を見てうなずいた。

「わかりました」

 丹波は小さく雪華と平之助の事情を、かいつまんで説明した。

 しかしその際、杉戸組や、竜宮寺大助の名には、丹波は触れなかったのだが、たとえそれを秘しても、特に竜宮寺大助の名は、すぐに察せられてしまう。

 案の定、雪緒の顔色が変わった。

「浦益の干潟を埋め立てているって…」雪緒は震える声で云った。「じゃ、あの…」

 そう云うと雪緒は、両手に顔を埋めた。

「君」大江が怪訝そうに云い、雪緒の肩を抱く。「どうした。震えているじゃないか」

 この大江の反応を見ると、彼は竜宮寺大助と雪緒の関わりは知らないらしい。

 丹波はそう察した。

 雪緒はその点だけは、大江にも云えなかったようだ。

 そして雪緒は、当然ながら、あの浦益に建設中の総合公園の建設主が、竜宮寺大助であることを知っている。

 新聞、雑誌であれほど麗々しく紹介されているのだから、知っていて当然なのだったが。

 その名をそう云った紙面で見た雪緒の心中はいかばかりであったか。  

 そしてまた、今こうして、自分がそれとこのような形で関わらざるを得なくなった心境は…。

 だがこうして、それが現実になってしまった以上、丹波は沈痛な面持ちで、その雪緒を見やるより他はない。

 ところが、その雪緒は案外に早く冷静さを取り戻したように、丹波には見えた。

 雪緒は再び、雪華の背の傷に手を当て始め、云った。

「この子は…匿えないのですか」

「そっちの男の人だけでも迷惑なのに」丹波は云う。「この子までいたら、余計に大変なことになる。…心配しなくても、大丈夫です。この子はきっと俺が守るし、この子だって、そんなにヤワじゃない」

「こんな状態で連れ出したら」大江が云う。「この子の背中に一生傷が残るぞ」

「…仕方ありません」丹波が答える。「それがこの子の宿命さだめなんでしょう。…生まれ落ちた時からの」

 雪緒がギクリと凝固した。

 一旦引いていた涙が、再び滂沱の落涙となって、雪華の傷の上にハラハラと散った。

 それを見て、丹波は思わず訊いた。

 訊かずに済ますつもりだった。

 だが、永年訊きたかった問いだった。

 出来るだけ冷静に、静かに、丹波は雪緒に訊いた。

「何故、この子を捨てた」 

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