第19話 血の祭り(その2)

 上野警察署の取調室に、丹波はいる。

 右手首には手錠を掛けられ、その手錠のもう一端は机の脚にはめられている。

 机の上には丹波の風呂敷包みが広げられている。

 中身はと云えば、着古したシャツに股引に褌、その他に空の拳銃が二丁と弾が数発。

 それに予備の弾が一ダース。

 すでに夜になっている。

 取調室には丹波の他に刑事が二人いて、先程から欠伸を噛み殺している。

 丹波を連行して来た刑事たちだ。

 どういう訳か、朝ここに連れて来られてからずっと、ロクに取り調べらしい取り調べが行われていない。

 拳銃のことも問われない。

 いくら「名誉臣民」であっても、拳銃を不法所持していれば当然罪に問われる。

 だが刑事たちはそんなことは先刻承知の様子であった。

「一体こりゃ何のマネだ。誰の差し金だ」

 丹波は同じことをたびたび刑事たちに問うたが、彼らはニヤニヤ笑ったり、肩をすくめたりするばかりで答えない。

 誰かがここで丹波に足止めを食わせているのは明らかだった。

 その可能性がもっとも高そうなのは、竜宮寺大助だった。

 イヤな予感がした。浦益で何か起こっているのは確かだ。

 しかし一方で、いくら竜宮寺大助のバックに実家の竜宮寺製薬や代議士で前建設大臣の浜尾が付いているからと云って、田舎警察の署長ならいざ知らず、このように警視庁管轄下の刑事までも動かせるものだろうか。

 丹波の知る限り、竜宮寺一族にせよ浜尾にせよ、まだそこまでの権力は握っていないはずだった。

 ただそれも、単純にカネの力で、この刑事たちを直接丸め込んでいるのなら話は別だが。

 不意に取調室の扉の向こうに、早足の、硬い響きの靴音が聞こえて来た。

 それが軍靴によるものだと、丹波はすぐに察した。

 やがて靴音は取調室の前で止まり、扉が開いた。

 入って来たのはカーキ色の軍服に同じ色のマントを羽織り、軍帽をキッチリ被った軍人だった。

 その軍帽の庇の下から、針のような鋭いまなざしがこちらを見据えており、それに睨まれた二人の刑事は、どちらも海千山千の猛者にもかかわらず、思わず立ち上がって直立不動になった。

 軍人の、薄い口髭の下の唇が、かすかにニヤリと笑った。

 丹波はチラリと軍人を見上げた。

「…貴様か」丹波は憮然として呟く。「あのせっかちな靴音で、およそ察しは付いたがな」

「久し振りだな、丹波」軍人は冷ややかなトーンの低い声で云った。「大連で別れて以来だな」

 軍人は丹波の手首に手錠が掛かっているのを見て、刑事たちをギロリと見据えた。

「貴様ら、ここにいるのは予備役とはいえ、れっきとした帝国陸軍大尉であるぞ。失礼だ。手錠を外せ」そして一拍置いて名乗った。「自分は東部第七憲兵隊隊長、橘藤伊周きっとうこれちか中佐である」

「第七…」刑事たちは呟きつつ、蒼ざめた。「橘藤…」

 刑事たちは慌てて直立不動からさらに敬礼し、「失礼しましたあッ」と叫ぶと、急いで丹波の手錠を外した。

「申し訳ございません」ノッポの刑事が汗だくになって云う。「内務省の方から直々にこいつ…いやこの方を連行し絶対に所外へ出してはならぬという指令がありましたもので…」

「よろしい」橘藤は胸元から舶来の細巻葉巻シガリロを出してくわえると、デブの刑事が慌てて擦ったマッチの火を吹き消し、ポケットから自分のやはり舶来のライターを取り出して火を点けるのだった。「君たち二人にもう用はない。消えろ」

 刑事二人はキョトンとして顔を見合わせた。

 橘藤は怒鳴った。

「消えろ!」

 刑事二人は転がるように取調室から出て行った。

「中佐に昇進か」丹波が云った。「針の眼ニードル・アイ橘藤伯爵カウント・キットーは相変わらずご健在と見える」

「魔弾の射手の不死身の丹波はえらく情けないな」橘藤は半分しか吸っていない葉巻を床に落とし、爪先でにじり消した。「その褌を早く仕舞え。ちょっと付き合ってもらいたい所があるんでな」

「嫌だと云ったら」

 丹波が云うと、橘藤はニヤリと笑う。

「いくら魔弾射ちの貴様でも」橘藤は冷たく愉快そうに云う。「弾のない拳銃を撃つことは出来んだろう」

 それから数分後、上野警察署を発した自動車の後部座席に、丹波と橘藤の姿がある。

 自動車は憲兵隊の旗が先頭に立っており、運転するのは東部第七憲兵隊の若い下士官であった。

 東部第七憲兵隊と、その隊長橘藤伊周の名は、表の社会では無名なれど、ひとたび裏の社会へと目を転ずれば、その名は畏怖の念を持って轟き渡っている。

 東部第七憲兵隊。

 通称「第七」または「第七機関」とも、その時の隊長の名を取って「XX機関」とも呼ばれる。

 従ってこの時は「橘藤機関」と呼ばれている。

 とにかく、新政府誕生以来数十年、その間に起きた政治関係の暗殺または謀略事件で、この「第七」が関わっていない事件はないという。

 その活動は我が国内ばかりではない。

 大陸に於いても、我が国と関係のある暗殺や謀略には、必ずこの「第七」の存在が噂されるのであった。

 とは云え、それはいずれも噂ばかりで、本当のところ「第七」がどういう活動をしているのか、その「第七」の内部の人間以外、誰も知らないのだった。

 隊長の橘藤伊周は軍人であると同時に、古代より続く名門橘藤伯爵家の当主でもある。

 そもそも橘藤家というのが朝廷にあって暗殺や謀略を一手に引き受けて来た一族であったのだ。

 我が国の歴史上、何かしら朝廷のからんでいる事件の陰には(ということは我が国史上の重大事件のほとんどすべてということだが)、必ずこの橘藤一族の影がある。

 もっとも、この橘藤一族はマモノではない。

 ではないが、我が国の名門の中で最も深くマモノと関わって来た一族ではある。

 一例を上げるなら、平安期の有名な陰陽師安倍晴明を引き立てたのは時の橘藤家当主伊盛これもりであった。

 自動車は夜の帝都を疾走している。

「大連か…」橘藤は含み笑い気味に云った。「懐かしいな」

「若き日への感傷か」丹波がぶっきらぼうに云う。「貴様らしくもないな」

 橘藤はそれには答えず、しばらくの間沈黙した。

 再び細い葉巻を燻らせているが、丹波にそれをすすめる様子はない。

「まあいい」橘藤はようやく口を開く。「私も昔話をするために貴様をここに連れだしている訳ではない。…貴様、浦益の事が気になっているんだろう。それで出先から急遽戻ってきた…。違うか?」

 今度は丹波が沈黙する番だった。

「まあいい」橘藤は車の窓をほんの少し開け、葉巻をピッ!と投げ捨てた。「もう調べはついている」 

 丹波はなおも黙っている。

「今から十数年前、北陸である事件が起きた」丹波の沈黙に構わず、橘藤は淡々と話し始める。「まったく報じられることはなく、闇に葬られた事件だが、一大事だ。…北陸の山奥にこれまで知られていなかった、驚愕すべき術を伝承するマモノの村があった。長らくその存在が知られなかったのは、そこの村人が強力な結界を作って余所者を中に入れなかったからだ。その謎が明るみに出たのは、そこの村長むらおさの娘からだった。娘は、外界に強くあこがれていた。ある日、娘は結界をどうにかして破って、外界の街に行った。世間知らずの初心うぶな娘は、そこで男に出会い、たちまち恋に落ち、子まで孕んでしまった。娘はその男に、村の秘密を喋ってしまった。これはたちまち軍当局の知る所となった。その秘密に軍が驚天動地の驚愕ぶりを示したのは無理もない。内容が内容だからな。軍は早速内偵者を使わした」

 橘藤は一旦言葉を切って、また細巻葉巻に火を点ける。

 丹波は黙って、窓の外の過ぎゆく夜景に目をやっている。

 橘藤は再び喋り出す。

「娘は孕んでから、自分の行いの愚かさに気付いた。しかし、村の掟を破った娘は、村から追われた。その上、孕ませた男の方も、マモノとの間に子を作ったことを怖れて、娘を消しにかかった。娘は逃げた…。そして娘は足を滑らせ滝から落ちた。だが死体は見つからなかった。不思議なことに、軍から内偵に行った奴も、同じく行方不明になった…。もっともそいつは、数カ月後にひょっこり軍司令部に出頭し、辞表を出したがな。軍はそいつの能力を高く買っていたから、軍規違反には目をつむり、予備役とした。そいつっていうのが…もう云うまでもないか」

 橘藤は丹波を見た。

 窓の外に目をやったままの丹波が、つまらなそうに云った。

「話はそれで終わりか」

「いや」橘藤は答える。「それからややあって、やはり同じ山奥の辺りで、炭焼き小屋が燃える火事があったが、そこから数人の焼死体が見つかった。奇妙なのは死んでいた奴が、その小屋とは何の関係もない奴らで、しかもことごとく首をはねられたり、胴体を立てに真っ二つにされたりしてたことだ。これまた、闇に葬られた事件だがな。奇妙な事件はまだある」

 丹波は無言のままだが、橘藤は構わず続ける。

「数年前、神田明神の近所で火事があって、焼死体が一つ見つかったんだが、こいつは右腕を斬り落とされていた。死んだのは…花澄無常というマモノだが、こいつも戦争に行って「名誉臣民」になった。近所の者の話だと、家にはもう一人、無常の娘の雪華っていうのがいた。しかしこの娘は火事の際家から飛び出したっきり、以後杳として行方不明だ。その花澄無常は、大陸で貴様の部下だった男だ。復員後も親しくしていたようだな」

「まあな」丹波はぶっきらぼうに答える。「話はまだあるのか」

「ああ。話はようやく今現在に至る」橘藤はそこで意味ありげに言葉を斬り、ややあって、続けた。「貴様の行きたがっている浦益のヤクザ、杉戸組の組長、杉戸松五郎の末娘が、雪華という名前だ」

 丹波は窓の外を見たまま「よくある名前だ」と云うと橘藤はせせら笑った。

「いいや、よくある名前とは云えないな」

「じゃ、偶然だろう」

「そう、偶然かも知れん。だが…」橘藤は再びタバコを窓の隙間からピッ! と弾いて捨てた。「そのどちらにも貴様が関わっているのは、これも偶然か?」

「で」丹波はようやく橘藤の方を向いた。「そんな話を俺にしてどうしようって云うんだ?」

「なあに」橘藤は煙草を取り出そうとして、止めた。「こっちの云うことを聞いてくれれば、今の話は全部不問に付そう、ってことだ」

「何をさせたい」

「今はまだ云えんな」

「どうせウサン臭いことなんだろう。誰を暗殺させるつもりだ」

 橘藤は鼻先でフフンと笑っただけで答えない。

「それより気になるのは」丹波は再び窓の外を見て云う。「さっきから車がグルグル同じ所を回ってることだ。何の時間稼ぎのつもりだ? 貴様ら、どうせ竜宮寺製薬とグルなんだろう。一体何の得があってあんな奴らと組んでいる? さっきの話だって、どうせ竜宮寺の方から聞いたんだろう。何せその話の一方の当事者は竜宮寺大助だからな。ああ…なるほど。今回の話には元建設大臣の浜尾が噛んでるらしいが、あいつにとっちゃ現宰相は政敵だし、軍にとっても、軍縮路線を進める宰相は邪魔ものだ。今の宰相が死ねば、浜尾は建設大臣復帰どころか、宰相の座だってあり得る訳だ…。アッ、あれは何だ?」

 不意に丹波が橘藤の座る側の窓の向こうを指さして叫んだので、思わず橘藤はそちらを見た。

 その後頭部を丹波は思い切り押して窓ガラスに叩きつけた。

 橘藤の叩きつけられた顔面からグシャッ、という鈍い音がした。

 運転している下士官が急ブレーキをかけ、拳銃を抜いて振り返ったが、それを丹波は素早く叩き落とし、床に落ちる直前に手に取り、クルリと回してパン! パン! と二発、橘藤と下士官の太腿にお見舞いした。

 電光石火の早業であった。

「悪いが、俺はここで下ろさせてもらうぜ」

 そう云い捨てて丹波は後部座席の扉を開いて外に転がり出た。

 闇の中から丹波の声がする。

「大したことないな、「第七」も。事実誤認が多すぎるぜ」

「何だと、待てッ」

 顔面血まみれの橘藤は太腿を左手で押さえつつ、右手に拳銃ならぬ舶来のライターを構えた。

 ライターの着火ドラムを押すと、弾が発射された。

 当たった手応えはあった。

 しかし闇の中から一発撃ち返して来て、橘藤の右手からライターが飛んだ。

「丹波!」橘藤は闇に向かって吠える。「貴様なんぞ、俺の手に掛かれば、いつだって捕まえられるんだぞ!」

 しかし応答はもはやなく、ただ深々とした闇だけが静まり返っていた。 

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