第18話 血の祭り(その1)
それから三日後の朝。
帝都東京の北の玄関口、上野駅に到着した夜行列車から下りて来たのは、丹波であった。
丹波は今日も着流し姿であり、手にはこの度も風呂敷包みを提げている。
その中味は表からはわからない。
地方にいた丹波は、杉戸松五郎が「帝国グランギニョール一座」に対し、干潟埋め立て工事を了承しただけでなく、漁民たちを説得すると約束した、との噂を耳にした。
そこには何かあったに違いなく、かつそれにとても良からぬものを感じた丹波は、急遽地方での仕事を切り上げ、戻って来たのだった。
丹波は行き交う雑踏の中を行く。
上野駅だけに東北や北陸訛り、さらには北海道訛りが方々から聞こえて来る。
と、急に丹波は行く手を阻まれた。
左右からコートに鳥打帽の、デブとノッポの男二人が現れたのだ。
男たちはコートの胸元から警察手帳を見せた。
「上野署の者だ」ノッポの男が云った。「丹波だな。ちょっと署まで同行してもらおう」
丹波はまったく動じる様子はない。
抵抗するそぶりも見せない。
「一体何だ」丹波は静かに云う。「誰の差し金だ」
「大人しく来い。上からの命令なんでな」
デブの男が云い、丹波は小さく溜息をついた。
丹波にとってこういうことは日常茶飯事だった。
こういう時丹波は下手に抵抗しない。
丹波はとりあえず大人しく従う。
丹波は手錠を掛けられ、二人の刑事に挟まれて、上野署へと連行されていった。
同じ日…。
浦益の干潟に、異変が起きていた。
多数のトラックが次々と干潟まで乗り入れて来て、大勢の人足がドヤドヤと降りて来た。
そしてその場でアサリ採りなどしていた漁民たちを、力ずくで追い払うと、そこに杭をいくつも打ち込み始めたのだった。
丹波の予感は当たったのだ。
すぐさま漁民たちは警察へ、あるいは杉戸組へと走った。
警察も杉戸組も、これまたすぐさま干潟へと駆け付けた。
しかし両者のそれからの行動はまったく逆だった。
警察は干潟に着くやいなや、たちまち鉄製の柵を並べ、その前に警官隊をズラリと配置し、工事関係者以外立ち入れないようにした。
駆け付けた杉戸組の連中ももちろん立ち入れず、漁民たちと共に柵の外でわめき、怒鳴り、罵って騒ぐより他はない。
柵の内側に警察署長の船村が現れた。
「貴様ら、騒ぐのをやめろ」船村はメガホンを使って柵の外に向かって云う。「それ以上騒ぐと、公務執行妨害で逮捕するぞ」
しかし漁民たちと杉戸組の連中は騒ぐのをやめない。
すると、船村がうなずき、同時に、居並ぶ警官隊が一斉に拳銃を引き抜いたので、漁民たちと杉戸組の連中は「ワアッ」と叫んで後退った。
警官隊は拳銃を空に向け、一斉に威嚇射撃をした。
いっぺんに鳴ると拳銃の音も相当なもので、後退った漁民たちも杉戸組の連中も、耳を塞いで縮み上がった。
「いいか」船村のメガホンを通じた声の意気がさらに上がる。「今度はおまえたちに向かって撃つ。容赦せんぞ」
そこに、人力車に乗って杉戸松五郎が現れた。
あの村役場での会談以来数日しか経っていないのに、松五郎はさらに老いさらばえたように見える。
人力車から下りるのにも、若林の他二三人の組の若い者の手を借りないと無理なほどだった。
眼光の鋭さだけが、松五郎の生ある証しであるとさえ云えた。
「約束が違うじゃねえか」
メガホンなどないので、松五郎はありったけの大声で怒鳴った。
しかしその声はしゃがれて気息エンエン、到底柵の向こうなどには聞こえない。
船村は松五郎の姿に気付いているはずだが、その方を見ようとはせず、無視を決め込んでいるようだった。
「みんな、済まねえ。俺が馬鹿だった」松五郎は履いていた草履を脱ぎ捨て、杖も投げ捨て、その場に跪き、漁民たちに向かって土下座した。「この通りだ。許してくれ」
漁民たちは困惑顔を互いに見合わせた。
顔を上げた松五郎は、しかしもはや立ち上がる気力もないようだった。
若林が慌てて手を貸すと、松五郎は全身を震わせながらそれに縋ってようやく立ち上がった。
が、仁王立ちになると目にカッと力が戻って、若林を突き飛ばした。
そのままヨロヨロと杖も使わず柵の方へにじり寄って行く。
「アッ、コラ、近付くな」
警官たちが左右から慌てて阻止しようとすると、松五郎は閻魔大王をも
「触るんじゃねえ、このガキャ」
と怒鳴りつけ、その場にいた者みなの心胆を寒からしめた。
「やい、船村、坂田ッ」松五郎はありったけの大声にありったけのドスを効かせて叫ぶ。「竜宮寺のガキャどこへ行ったッ」
船村の陰に身を縮めるようにして隠れている村長坂田のキンカン頭が見える。
船村も、松五郎の命懸けの迫力に縮み上がっている様子で目をつむって肩をすぼめている。
船村と坂田は、同時に同じ方を指さして見せた。
それは、干潟の先の海の方であり、その沖合に一隻の船が浮かんでいる。
白い気障な感じの大型ヨットであった。
「あの船にいるってえのか」
松五郎にそう問われて、船村と坂田は同時にこっくりこっくりうなずく。
「若林」松五郎は再び息も絶え絶えの小声になって呼ぶ。「
「へい」若林は松五郎の足元に
同じ頃、いつもの川を、いつもの小舟で、雪華と平之助が、いつものように下って来た。
服装もいつものように雪華はセーラー服、平之助は黒詰襟の学生服だ。
「…あっという間に、静かになっちゃったわね」
雪華が、昨日まで押すな押すなの大盛況ぶりだった土手の上の道を見やって云った。
と云うのも、「帝国グランギニョール一座」は昨日、突然興行を打ち切り、即日撤収したからだった。
「ああ」櫓を漕ぎながら平之助が云う。「だけど、これが本来の、本当の浦益の姿だよ。昨日までのは…悪い夢だ」
「…うん、そうね」そう云ってふと前を見た雪華は「あっ」と小さく叫んで指さす。「…あれ、お父さんと若林さんじゃない?」
「え?」と平之助も雪華の指さす方を見る。「あ、ホントだ」
いつも二人の小舟の着く船着き場から、一艘の小舟が出て、そこに松五郎と若林が乗っているのが遠目にも確認出来た。
その小舟は、笠を目深に被った船頭が、櫓を漕いでいるのだったが…。
…気が
舟は、次第に対岸の、東京側の方に寄って行く。
「おい、どこ行くんでえ」若林が怒鳴る。「しっかり漕げや」
笠を目深に被った船頭は、無言のまま対岸の葦原を指さす。
するとその中に、手を振って立っている人影がある。遠目でよくわからないのだが、スーツ姿であり、眼鏡を掛けているようで、顔の辺りがキラリと陽に反射している。
「ありゃ竜宮寺のガキか」松五郎はしばたいた眼をジッと凝らす。「服装からすると、それっぽいが」
だが船が葦原の中に入り、相手の姿が確認出来るほどまでに近付くと、とたんに松五郎は怒鳴り出した。
「ありゃ源太郎の奴じゃねえか。何であいつがここにいるんだ」
何故か竜宮寺大助と同じスーツ、金縁眼鏡姿の源太郎の方も、まさか来たのが松五郎だとは思っていなかったようで、支離滅裂な体操のような仕草をして、慌てふためいている。
「一体どういうことだ」
怒鳴って振り返った松五郎は、そこに笠を取った船頭の、見覚えのあるまったく無表情な顔と、驚愕の表情を浮かべて「親分…」と呻き、舟床に崩れ落ちる若林の姿を同時に見た。
若林の背中には
それはヘビのように二股に分かれている。
「しまった。ワナか」
そう叫んだのが、松五郎の最後の言葉だった。
松五郎は、懐に忍ばせていた愛用の短刀を抜く間もなく、次の瞬間には、男が投げた短刀に心臓を一突きにされ、若林の上に崩れ落ちていた。
「ワアッ」
岸ではこの様子を見た源太郎が、叫びながら一目散に駆け出して逃げようとしていた。
男は松五郎の懐中をまさぐり、短刀を抜き取ると、それを源太郎の背に投げた。
短刀は命中し、源太郎は「ギャッ」と叫んでその場に倒れた。
男は船を岸に着けると、無表情のまま、三人の倒れている男をまったく顧みることなく、岸に降り立って早足でその場から立ち去った。
上機嫌らしく、口笛など吹いている。
「ペール・ギュント」の「山の魔王の宮殿」であった。
…雪華と平之助の小舟が現場に到着したのは、それからやや経ってからのことだった。
「若林さん」「お父っつぁん」
二人は口々に叫びつつ、雪華が若林を、平之助が松五郎を抱き起こしたが、もちろんどちらもすでに息絶えていた。
さらに二人は、岸にうつぶせに倒れているスーツ姿の男を見つけた。
抱き起こすと源太郎であったので、二人は驚いた。
源太郎はまだかすかに息があったが、もはや意識はモウロウとしており、そこにいるのが誰かわからぬようであった。
目もウツロな源太郎は、うわごとのように呟く。
「りゅう…ぐうじに…だま…された…」そして、己を憐れむような笑みを浮かべて云った。「おれ…のそんざ…いなん…て…いみが…なか…った…。いったい…なん…のた…めにう…まれてき…たんだ…」
そう云うとガクリと首を垂れて、口から一筋の血を垂らして、源太郎は息絶えた。
「兄さん。兄さんしっかり」平之助は源太郎の身体を揺すって叫ぶ。「何てこった。警察を呼ばなきゃ」
「無駄よ」雪華はキッパリと云った。「きっと警察もグルだわ。それより、私たちは一刻も早くここから離れた方がいい」
その冷静…と云うより冷厳なほどの雪華の口調に、平之助は驚愕した。
雪華を見ると、その表情もまた、思わずゾクリとするほどの怜悧な無表情に変わっていた。
平之助は叫んでいた。
「何云ってるんだ。親父や兄さんや若林さんをほったらかしてどこ行くって云うんだ」
いきなり雪華が平之助の頬をひっぱたいた。
平之助は、痛さより驚きのあまり呆然とした。
「馬鹿。ここで愚図愚図してたら、私たちがこの人たちを殺した罪をおっ被せられるんだ」雪華は立ち上がった。「後の算段は後で考えることにして、ヤバい場所からはとっとと逃げろって、お父っつぁんが云ってたわ。さあ、平之助さん、早く。ここはひとまず、家に帰るの。ここはどうせ、誰かが見つけることになってるはずよ。さあ、早く」
雪華は平之助の手首をつかんで、引っ張った。
平之助は雪華の豹変っぷりにすっかり呑まれたまま、呆然と立ち上がり、雪華に引かれるまま、元の小舟に乗った。
小舟は雪華が櫓を漕いだ。
初めて漕ぐはずなのに、平之助よりもずっと上手だった。
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