第16話 百合の紋章(その3)
「アッ、これは先生」たちまち源太郎は直立不動になって敬礼する。「こちらは雪ちゃん、いや雪華です。私の、妹、であります」
「ああ」竜宮寺大助は破顔一笑する。「あなたが雪華さんですか。いや、お噂はかねがね。それにしても、お噂にたがわず、たいそうお綺麗な方ですなあ」
それからやや間を置いて、今度は本当に感に堪えかねたように、「本当に美しい…」と竜宮寺大助は呟いた。
しかしそう云われても雪華の方には何の感動もなく、何か不穏なさざ波が、心の中に湧き立つばかりである。
「こちらは?」
竜宮寺大助はトミ子の方を見て云った。
するとトミ子は自分から喋り出す。
「私、丸山トミ子です。雪ちゃんの友人です。あの…。もしかして、竜宮寺大助先生ですか?」
トミ子はキラキラ輝かした目を真ん丸に大きく見開いている。
「ええ、そうですが…」
竜宮寺大助が金縁眼鏡の真ん中を指先で押さえながら云うと、「ワアッ、すごい」と間髪を入れずトミ子が叫ぶ。
「私、新聞で拝見しました。先生、仏蘭西にご留学されてたんでしょう? ロダンに弟子入りされたとか」
「ええ、確かに、彫刻はロダンに学びました。なかなか厳しい先生でしたがね」苦笑気味に竜宮寺大助は云う。「絵画はルノワールとモネに、建築はガルニエとエッフェルに学びました。他に音楽をフォーレとドビュッシーに、文学はマラルメのサロンに通いましたね」
トミ子は感激の面持ちでいちいちうなずきながら聞いているのだが、雪華には何ともウサン臭く聞こえる。
要するにフランスの有名な芸術家の名前を羅列しているだけにしか聞こえない。
「まあ、こんな所に突っ立ってるのも無粋ですから」竜宮寺大助はニコヤカに微笑んで二人を中に促す。「私がご案内しましょう。どうぞ」
雪華とトミ子は竜宮寺大助の後に続いて天幕の中に入った。
雪華はギョッとした。
竜宮寺大助のすぐ後ろに、黒ずくめの、年齢不詳の男が立っていたからだ。
まったくその気配を感じなかった。
只者じゃない、悪い意味で…。
雪華の全身に緊張が走る。
「天幕に模様があったでしょう」歩きながら竜宮寺大助は訊かれもしないのに説明する。「あれは仏蘭西の王家の百合の紋章なのですよ。もっとも、仏蘭西王家は先の革命で滅んでしまいましたがね。王、王妃ともに
「マリー・アントワネット!」トミ子が感激も露わに叫ぶ。「類まれな美貌を持ちながらも処刑された悲劇の王妃ですわ。私、彼女が大好きですの。何だか自分が彼女の生まれ変わりのような気さえ致しますの。彼女の物語って、浅草の少女歌劇の題材にピッタリだと思いませんこと?」
「それは素晴らしいアイデアですな」竜宮寺大助が軽やかに答える。「検討させて頂きましょう。この天幕では出来ませんが、正式に総合公園が出来た暁には、少女歌劇団も創設する予定なのです」
「まあ、本当ですの?」トミ子のテンションはますます上がる。「何て素晴らしいんでしょう」
雪華は、そのあまりにも舞い上がってしまっているトミ子の様子に、少々不安なものを感じている。
とっても危ういものを感じさせる。
しかし今は黙ってついて行くしかない。
一行は入口から左に進んでいた。
大方の人は右に行くようだが…。
雪華がそう思っていると、それを察したかのように竜宮寺大助が云った。
「右へ行くと人形芝居の劇場です。左のこちらは展示会場です。人形劇が始まるまでまだ間がありますから、先にこちらをご案内しましょう」
ふと雪華は後ろを振り向いて、驚きのあまり思わず声を上げそうになった。
さっきの黒ずくめの男が、まったく無表情に、雪華の後ろから付いて来ていたのだ。
雪華はこの男に注意を向けていたつもりだった。
それが、ほんの一瞬、トミ子や竜宮寺大助の方に気を取られたら、このザマだった。
雪華は不覚にもまったくその気配を感じなかった。
雪華は心底ゾッとして、背中が粟立つのを感じた。
こういう感覚は過去に覚えがあった。そうだ。
無常が殺された時、あのヒヒ面のヒヒ蔵という男に、組み敷かれた時だ…。
しまった。
雪華は後悔した。
これは、とてつもなく危険な所にウカウカと入り込んでしまったのではないか…。
「我々の造ろうとする総合公園には、テーマがあります」歩きながら竜宮寺大助は喋り続ける。「それは人類の歴史の栄光と悲惨を提示し、それによって観客により良い人類の未来を考えてもらおう、ということなのです。よって、我々はあえてその展示内容について、それが間違っているとか正しいとかいったような、先入観を与える説明を避けているのです。その展示内容についての是非は、あなた方お二人それぞれに考えてもらいたいのです。ではまず、人類の栄光についての展示品です」
「わっ」
薄暗い通路から突然まばゆい空間に出て、トミ子は驚いて声を上げた。
雪華も急に明るくなって目をしばたいた。
目が慣れると、今度は目の前のものにビックリして、目を見張った。
巨大な、筋肉隆々とした白い男の像が、目の前に屹立している。
どこかで見たことのある像だ…。
「あっ、これ」トミ子が声を上げる。「ダヴィデ像ね。ミケランジェロの」
「そう」竜宮寺大助が微笑む。「その通り。これは
「そっちは」トミ子が指さして叫ぶ。「ミロのヴィーナス! って…こんなに大きかったかしら…?」
ダヴィデ像の向こうには、それと同じぐらい巨大な、腕のないヴィーナス像が、やはり屹立しているのだった。
「それは」竜宮寺大助は苦笑しつつ云う。「職人が失敗したのです。ミロのヴィーナスもダヴィデ像と同じ大きさだと勘違いしたのです」
「へえ…。あっ」トミ子がまた大声を出す。「モナリザがあるッ」
トミ子はその方を指さすと、竜宮寺大助にも雪華にも構わず、バタバタとそちらへ走り出す。
ダヴィデ像の向こうの壁に、おなじみのモナリザの絵が掛かっている。
「それは写真による複製です」竜宮寺大助は微笑みながらゆったり優雅な足取りでトミ子の後を追う。「これらの有名作品はさすがに現物を持って来る訳には行きませんが、レンブラントやルーベンス、それに印象派の画家たちの絵は、あちらで本物を購入してありますから、やがてはみなさんにもお目に掛けることが出来るでしょう」
「ロダンもあるんですか」
目を輝かせてトミ子が問うと、「ええ、もちろん」と竜宮寺大助は答えた。
その間、雪華の意識はそれら芸術作品ではなく、もっぱら竜宮寺大助に影のように寄り添う黒ずくめの男の方に向けられていた。
そうやって意識していないと、この男、まったく気配というものを感じないのだ。
それはまるで、死者の如くであった。
そのくせ、先程雪華が本能的に察した、悪い意味で只者じゃない感じは、よりいっそう、確実に強まるのだった。
次に案内された所には、七つほどの模型が並んでいて、一つはご存じエジプトのピラミッドのようだが、後は雪華には何だかよくわからなかった。
トミ子も同じことのようで、キョトンとして竜宮寺大助の顔を見ている。
「ここはみなさんあまり馴染みがないでしょう」竜宮寺大助は微笑む。「これは、古代
雪華はギョッとした。
竜宮寺大助の真横にいた黒ずくめの男が、不意に雪華の方を見たのだ。
男の首はまるで機械仕掛けのような、奇天烈な回り方をした。
それだけでなく、男はニタリと笑った。
薄い、色のない唇の間から、黒い舌がチロリと出た。
その先は二つに分かれていた。
男は確かに笑っているのに、それでも無表情に見える。
目にまったく光がなく、どよんと死んだようだからだ。
あまりの気味悪さに、さすがの雪華も思わずギュッと目をつむった。
そしてすぐに目を開けたのだが、男の姿はもうなかった。
竜宮寺大助と、その説明を熱心に、目を輝かせて聞いているトミ子の姿があるのみだった。
「…これら七不思議の建造物も、原寸大で再現する予定なのですよ。他にも、
などと云いながら、竜宮寺大助はまた歩き出した。
「あの」雪華は思わず訊いた。「今ここに、黒い服を着た男の人はいませんでしたか」
「男?」竜宮寺大助は怪訝そうな顔をする。「そのような者はおりませんが、トミ子さん、気がつきましたか?」
「いいえ」トミ子は首を横に振る。「気が付きませんでした。…雪ちゃんどうしたの? 顔色が悪いわよ」
「な、何でもない…」
雪華は無理矢理な笑みを浮かべ、首を横に振った。
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