第15話 百合の紋章(その2)

 間もなく、松五郎は村長室に戻った。

「杉戸さん、いや松五郎さん。戻ってくれて良かった」キンカン頭の村長坂田がニコヤカに云う。「どうかね。この村の発展のためと思って、一肌脱いでくれんかね」

 しかし松五郎は、じっと杖を握りしめて立ち尽くしうつむいたまま、なおも返事をためらっていた。

 ソファに座る三人は怪訝そうに顔を見合わせた。

 松五郎の傍らに立った船村が、松五郎の肩をせっつく。

 と、にわかに扉の向こうが騒がしくなり、助役の村岡がペコペコ恐縮しながら扉を開いた。

 恰幅の良い、ブラシ髭を鼻の下にたくわえた精力的な男が扇子をバタバタ扇ぎつつ、「やあスマンスマン」と云いながら入って来た。

 とたんにソファの三人はパッと立ち上がり、深々と頭を下げた。

「これは閣下、お出迎えも致しませんで」

 云いながらキンカン頭が、先程松五郎にすすめたのと同じ椅子をブラシ髭の男にすすめる。

 男はそこにどっかり座り込みなおも扇子で扇ぎ続けている。

「イヤ、ここは暑いネ。もうオンボロだ。予算付けてやるから、建て直すがいいよ。冷暖房完備でネ」男は大声で云い、カッカと笑う。「もう話の方は付いたのかネ」

 意外な男の出現に、松五郎は驚いた。

 先の建設大臣で、民憲会の代議士、浜尾であった。

 再び民憲会主体の内閣になれば、建設大臣に返り咲くか、もしかすると宰相になるかも知れない。

 要するに、建設業界に絶大な権限を持つ政界の大物だ。

 ちなみに、城東会の地元選出の代議士でもあるが、松五郎とも何度か顔を合わせてはいる。

「や、これは杉戸さん、お久しぶり」浜尾は威勢よく挨拶する。「身体の具合が悪いそうだネ。養生しなきゃイカンよ。あ、何か滋養の付くものを、後で家に送らせるからネ。イヤイヤ、いいんだ。気にしない、気にしない。…マ、ネ、そういうことなんだよ。強制的に土地を接収するってのも有るンだが、それじゃ、お互いシコリが残るし、世論ってヤツもウルサいからネ。ここはマア、地元で一番信望のある杉戸さんに一肌脱いでもらおうってことになってネ。ホラ、このキンカン頭の坂田じゃ、どうにも信用がないじゃないか。ワハハハハハ…」

 まあそれから小一時間、浜尾の放談は続いた訳だが、それはどうでもよい。

「ならば…」松五郎は苦渋の決断をした。「漁師の最後に一人まで完全に納得してもらって、補償がちゃんと確実に為されるまで、工事は始めねえと約束してもらえますか」

「アアもちろんだ」浜尾は扇子を扇ぎながら豪快に云う。「このワシが約束する。良かった良かった。これで万事円満解決だ」

 …間もなく、浦益の村役場からよろめくように出て来た松五郎を見て、門前で待っていた若林は我が目を疑った。

 村役場の中に居た二時間に満たぬほどの間に、松五郎がさらに十も齢を取ってしまったように見えたのだ。

 若林は松五郎に付き添って来たのだが、表に居た警官たちに止められ、役場の中に入れず、ずっと表で待っていたのだ。

 しかし松五郎は、若林が問いかけても何も答えず、黙ったまま待たせてあった人力車に乗り込んだ。

 杉戸の屋敷から役場まではわずかな距離だが、今の松五郎にはそれを歩くのすら難儀だったのだ。

 ゆるゆると動き始めた人力車に従って、若林も歩き出した。

 その時、村役場の窓から黒ずくめの無表情の男が、この様子を窺っていた。

 その男の薄い唇の間から、ヘビのように先が二股に分かれた黒く細い舌が時折チラチラと覗く。

 若林はもちろん松五郎でさえも、そんなことには全く気付かなかった…。


 ****


 赤地に金文字が毒々しく踊って、「帝国グランギニョール一座」。

 その扁額が、何か得意げに胸を張っているようにさえ見える。

 雲一つない晴天の空には華々しく花火が、これでもかこれでもかと盛大に打ち上がる。

 そして例のグリーグの「ペール・ギュント」。

 本日は蓄音器ではない。

 生の管弦楽団オーケストラに混声の合唱団コーラスまでもが入口脇にズラリと陣取って、指揮者コンダクター指揮タクトのもと、生演奏を繰り広げている。

 その入口前には、まだ開場したばかりだというのに、もう押すな押すなの長蛇の列が、三十メートル四方はあろうかという巨大天幕テントの周囲を、すでに二巻き半以上も取り巻いているのだった。

 そこで木箱の上に乗ってメガホンで威勢よく何やらがなっているのは、水玉のネクタイ背広姿の源太郎だった。

 源太郎の乗った木箱からは紙幣が溢れている。

 そしてまた、広場の前の沿道には、食べ物やらお土産やらおもちゃやらの、様々な種類の屋台が立ち並び、ここも大勢の客で賑わっている。

 ともかく、いつもはひなびた浦益に、これほどまでに人が来て、これほどまでに賑わっているなど、かつてないことであった。

「ケッ」遠目にそれを見ていたとっぱずれの辰が忌々しげにツバを吐く。「ケッタくそわりいや。アニキ、あれ、どうにかなんないンすかね」

「馬鹿野郎、手ェ出すんじゃねえぞ」傍らの若林が、これも苦々しげな表情で云う。「これは俺じゃねえ。親分の命令だ。いいな」

「それにしても」と辰が情けない声を出す。「せめてあの屋台だけでも、こっちで何とかなんないンすかねぇ。城東会の連中にいい様にショバ貸してやってるようなもんじゃないすか」

「馬鹿野郎」若林は辰の坊主頭を小突いた。「情けねえこと云うんじゃねえ。俺らが城東会のおこぼれに預かって商売しろって云うのかよ」

 若林は「行くぞ」と云って踵を返す。

 辰は未練たらたらな顔で屋台の方を見ながら、その後に続く。



 いつものように平之助が女学校の門前に行くと、雪華と共に丸山トミ子も一緒に居た。

「今日は…トミちゃんも一緒に行っていいかしら」すまなそうな顔で雪華は云った。「あの…例の天幕テント、トミちゃんがぜひ見たいって云うの」

 それを聞いて平之助も困惑顔になったが、トミ子はそんな二人の様子に気付く風もなく、あからさまなウキウキ顔なのだった。

 これでは平之助も断れない。

「うん…いいよ」平之助はそう云ってから、慌てて付け加える。「ただし、僕はそこまで付いて行かないよ」

 …それから数十分の後。

 いつもの小舟には、雪華、平之助と共にトミ子の姿がある。

 もちろんトミ子がこの舟に乗るのは、初めてのことだ。

「へえっ」トミ子は目を丸くして感嘆しきりだ。「いつもこんな風に帰ってるんだァ…。ロマンチックぅー」

 舟が動き出して浦益に着くまで、何かにつけトミ子は「へえー」だの「ハアー」だのと感嘆し続け、実に賑やかなのだった。

 そんなトミ子を雪華は苦笑混じりに愉しげに見守り、初めは困惑していた平之助も

次第に何だか愉快になって来た。

 実を云うと、例の丹波の「土産」の一件以来、平之助は何となくではあるが、再び雪華と上手く会話を交わせなくなっていたのだ。

 この送迎を始めた頃に戻ってしまったかのようだったが、今日はこうしてトミ子がいるおかげで、そんな気分も幾らかは薄らいでいる。

 そして舟は浦益の船着き場に着いた。

 舟を下りたトミ子は物珍しげに周囲を見回してまた感嘆する。

「へえっ、ここが浦益かあ。東京のすぐそばなのに、ずいぶんと田舎なのねえ」云ってしまってトミ子は慌てて口を押さえる。「あ、ゴメン。田舎だなんて」

「いいよ」平之助は船を舫いながら笑って答える。「実際、本当に田舎だからね」

「でも道はずいぶん賑やかなのね」

 トミ子は土手の上を指さした。

 道には大勢の人と、自動車やらバイクやら自転車やら人力車やらが、入り乱れている。

「まったく」平之助は仏頂面で肩をすくめる。「浦益がこんなに人気になるなんてね」

「全部天幕を見に来た人?」

 トミ子の問いに雪華は「そうよ」と答える。無邪気に「へえっ、凄いのねえ」と感嘆しているトミ子を見て、雪華は平之助と顔を見合わせ苦笑する。

 平之助は同じく苦笑しつつ内心ホッとしている。

 少し、いや相当、先のわだかまりが消えたような気がした。

「へえっ、凄い」

 土手の上に来たトミ子は、目の前に現れた巨大な白い円形の天幕を見て、最大級の感嘆の声を上げた。

「これがこれだけデカいんだから」平之助は憮然と諦念が混ざったような顔をしている。「干潟に建てようって計画しているのがどれだけの大きさのものなのか、見当もつかないね」

「えッ」トミ子が驚く。「まだこれから何か建つの?」

「僕はここでおいとまする」平之助はトミ子の問いは聞こえなかったフリをして、手を振って踵を返す。「親父の様子が気になるんでね。じゃ、トミ子さん、また後で。帰りはまた送って行きますから」

「私、平之助さんを怒らせちゃったのかしら」平之助の後ろ姿を見送りつつ、心配げにトミ子が云う。「私、舟の中でちょっとはしゃぎ過ぎちゃったものね。平之助さん、きっとヘンに思ったんだわ」

「違うのよ」慌てて雪華は云う。「私たちのお父さんの身体の具合がここん所良くなくて、それで心配してるのよ」

「じゃあ雪ちゃんも心配じゃない? 帰らなくて良くって?」

「私が帰っちゃっていいの?」雪華は肩をすくめて苦笑する。「そしたらトミちゃん困るじゃない」

「ああ、それは困るゥ」

 トミ子は甘ったれた声でそう云って、その場でピョンピョン飛び跳ねるのだった。

 しかしそれにしても、大層な人出なのだった。

 天幕の周りはもはや人の列が三重巻きになっていて、いつ入れるのかわからぬ状態だった。

 入口では源太郎が、相変わらずメガホンに口を当てて何やらがなっているのだが、人混みの騒々しさ故に何を云っているのかサッパリ聞こえない。

 白い天幕が陽を反射してまぶしい。

 そのため入口の上に掲げた赤字に金文字の「帝国グランギニョール一座」の扁額がなおさらに毒々しく目立つのであった。

 白い天幕には均等に、菱形とも剣の形とも取れる模様が、金色の糸で刺繍されている。

 列に並んでから雪華は気付いたのだが、どうやら入場は入れ替え制になっているらしく、十五分おき位に数十人ずつ中に入っている。

 出入口は一つで、向かって右が入口、左が出口になっている。

 入場は先の通りだが、出て来る方は随時ゾロゾロと出て来る。

 出て来た人はみな一様にボウッと熱を帯びたような顔をしている。

 女の人の中にはサメザメと泣いている人もいる。

 熱心に議論し合う二人連れもいる。

 一つ云えることは、笑顔で出て来る人は一人もいないということだ。

 その入口の、源太郎が立ってがなっている脇の立て看板に、下手クソな文字で入場料金が書いてある。

 それを見て雪華は焦った。

 今日はそれほどの持ち合わせがない。

 しかしすぐに、その下に「浦益在住ノ者ト小児・学生ハ無料。タダシ要証明書」とあるので少しホッとした。

 学生証は持っている。

 しかしそれにしても下手クソな字だ。

 きっと源太郎が書いたのに違いない。

 それに、浦益在住の証明って、どうするのだろう。

 戸籍謄本でも持って来させるのだろうか。

「よう、雪ちゃんじゃねえか」

 聞き覚えのある声に呼ばれて、雪華はその方を見た。

 源太郎がメガホンをこちらに向けていた。

 列に並ぶ人々の好奇の視線も一斉にこちらに集まる。

 雪華は思わずうつむいて、小さく会釈した。

「いいんだよ、雪ちゃん。あんたは並ばなくたって」源太郎は大声で呼ばわる。「そっちはお連れさんかい? だったらいいや。ホラ、二人とも入んな、入んな」

 そう云って源太郎は二人を手招きし、並んでいる人たちには「ホラ、ちょっとどいてどいて。その二人を通しておくれ」と云って道を開けさせた。

 雪華は大変困惑したが、トミ子は「え? あの人知り合い? せっかくだから行こう行こう」と大喜びで雪華の袖を引っ張る。

 それに引きずられるように、雪華は入口の源太郎の前に行った。

「いやあ、嬉しいねえ。観に来てくれたんだ」

 源太郎がニヤニヤ笑って云うのに、雪華は目を逸らし気味にか細く「ええ」と答える。

「宣伝部長。そちらはお知り合いかい」

 不意に入口の奥から声がした。

 何だか生温かく柔らかい男の声だ。

 ついで人の姿が現れた。

 竜宮寺大助であった。

 本日の竜宮寺大助は白のベレー帽に白のルバシカという服装であった。

 もちろん雪華は竜宮寺大助もルバシカも初めて見る。

 初めて見るのだが、何だか不思議な感触を、雪華はその男に対して覚えた。

 その男の声同様の、妙に生温かい感触だった。

 猛烈な反感と、既視感デ・ジャ・ヴュとが一緒くたに混ざり合っていた。

 とにかく、一言では形容しがたい感覚が、一瞬にして雪華を襲った。

 竜宮寺大助の方も何か感じたらしく、金縁眼鏡の奥の目を一瞬細めた。

 ただし口元にはうっすらとした笑みを浮かべたままだった。

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