第14話 百合の紋章(その1)

 翌日…。

 浦益の村役場の殺風景な廊下を、杖をつき、足を引きずりつつゆっくりゆっくりやって来るのは、杉戸松五郎であった。

 松五郎にもはや往年の精悍さはない。

 先年病を得て以来、床に就いていることがめっきり多くなってしまった。

 髪もすっかり白くなり、皮膚もたるみ、シワが増えた。

 ただ一つ、眼光の鋭さだけは変わらないのだったが。

 松五郎の先に立って、気ぜわしげな速足で歩くのは助役の村岡であった。

 痩せこけて頬骨の出た、カマキリを連想させる顔にロイド眼鏡を掛け、金壺眼を始終ぱちくりさせている男であった。

 時々松五郎よりずっと先に行ってしまい、立ち止まって待つのだが、そこにかすかな苛立ちがある。

 松五郎の後押しのおかげで助役になれたような男だが、この村岡の態度でも充分、これから行われる会談の困難さが、松五郎には予想出来た。

「杉戸さんがお見えです」

 村長室の前まで来ると村岡はそう中に呼びかけ、扉を開けて松五郎を中に促した。

 松五郎が入ると、中にはすでに四人の男がソファに座っていた。

 誰一人立ちあがって松五郎を迎えようとしないが、そんなことより、その面子に松五郎は不快感を持った。

「や、杉戸さん。どうぞこちらにお掛けになって」

 座ったままそう云って、一人用のソファへとニコニコ顔で松五郎を促している、キンカン頭をテラテラ光らせたチョビ髭の小太り男が、村長の坂田であった。

 顔同様口調も愛想がよいが、それが上っ面なのは座ったままと云う態度で明らかだ。

「いや、ここに立ったままで結構だ」

 松五郎がそう云って断ったのは、単純に座るのがキツいというばかりでなく、促されたソファに座ると、卓をはさんで他の四人に囲まれてまるで訊問を受けるような形になると、瞬時に察したからでもあった。

「あいつは誰だ」

 突然松五郎はそう鋭く云って部屋の隅を杖で指した。

 無表情に突っ立っている黒ずくめの、年齢不詳の男がいた。

 今の瞬間まで、松五郎はそこにその男が立っていることに気付かなかった。

 それほどまでに完璧にその男は己の存在感を消し去っていた。

 こいつ、只者ではない、悪い意味で…。松五郎は思った。

「ああ、すいません」ソファの四人のうち、一番右端に座っていた男が、これもニコヤカに云った。「彼は私の秘書です。彼の抱えているカバンに、いろいろ資料が入っていましてね」

 確かに黒ずくめの男は黒のカバンを両手に抱えていた。

 しかしこれらのやり取りに黒ずくめの男は無表情に突っ立ったまま、ピクリとも反応しない。

 ニコヤカに云った男は齢の頃三十半ば位だろうか。

 髪を七三に分け、金縁の眼鏡を掛け、ダブルのスーツにネクタイをしている。

 姿だけなら丸の内のサラリーマンといった風であるが、その眼鏡も腕にはめた金の腕時計も舶来物の高級品であり、ふんぷんと男物の香水の匂いも漂って来る。

 眼鏡のせいで目立たないが、顔立ちも歌舞伎役者の如き生っちろい美男子であった。

 松五郎が部屋に入って感じた不快のいくばくかは、この男の軽薄な香水の匂いによる。

 それ以外の大半は、この男の隣に座っている男のためだった。

「よう、杉戸の。久しぶりだなぁ」その男がこれまた座ったまま、含み笑い気味に松五郎に云う。「身体の具合が悪いんだって? 養生しなきゃなんねえぜ」

「てめえに云われる筋合いはねえ」松五郎は吐き捨てるように云うと、村長の坂田に喰って掛かる。「おい、何でこの野郎がここに居る。城東会は俺ばかりじゃねえ。この浦益全体の敵だろう」

「まあまあ親分。そう云わずに」

 そう云って両手を上げて松五郎を制したいかつい面構えの男は、金モールの付いた警官の制服を着ている。

 浦益警察の署長、船村が何故か村長の隣に座っているのだった。

「杉戸さん」坂田がニコヤカに云う。「こちらの工藤さんは今は工藤建設の社長さんですよ。そりゃ確かに以前は城東会を名乗り、そういった道におられたが、今はすっかりカタギになって、立派に会社を経営しておられる」

「立派が聞いて呆れる」松五郎はせせら笑う。「こいつがどれだけ悪どい野郎か、村長も署長もよく知ってるはずだ」

 しかしその直後、松五郎は失望と寂しさをないまぜにした表情で、深い溜息をついた。

 そして弱々しく云った。

「てめえらも、工藤コイツのイヌに成り下がりやがったか。…カネか」

「人聞きの悪いコトをおっしゃらないで下さいよ、杉戸さん」キンカン頭はニコヤカなまま猫撫で声で云う。「こちらの竜宮寺先生と工藤さんのお話は、これからの村の発展にとって、決して悪い話じゃありませんよ。むしろ、村の近代化にとって大いに歓迎すべき話だと思いましてね。で、まあ、村のこれまでの発展に大いに御尽力されて来た功労者である杉戸さんにも、お話を聞いて頂こうと云う訳で、本日はわざわざご足労願ったって訳です」

 憮然とした表情でキンカン頭の話を聞いていた松五郎はややあって低く呻くように、「わかった、話を聞こう」と云った。

「私が竜宮寺大助です」

 金縁眼鏡の男は名乗りながらようやく立ち上がって、胸元から名刺を取り出し、松五郎に手渡した。

 松五郎はムッツリとそれを受け取り、胡散臭げに眺めやる。

「えらくたくさん肩書きのあるこったな」

 呆れて松五郎は呟いた。

 その名刺には竜宮寺大助と云う名前の他に、一級建築士、工学博士、理学博士、文学博士等々、他にも二三の肩書きがびっしりと印刷されている。

「あー」キンカン頭が口を開いた。「じゃ、ひとまずご説明を…」

「それは私から」竜宮寺大助がキンカン頭を制した。「単刀直入に申し上げましょう。私は芸術と娯楽の一大総合庭園を作りたいと長年計画して来ましたがここ浦益の干潟こそがその最適地であるとの結論に至りました。この総合庭園は一般に広く有料で開放されます。そうすれば近隣はもとより、帝都東京、いやいや日本全国、はては全世界から客が集まることでしょう。これは世界的にも他に例を見ない、画期的な、一大娯楽施設であり、大衆の知的向上にもつながり、子供の教育上の効果もある設備でもあるのです。しかしそのためには、何よりもまず地元の方々のご賛同、ご協力を得なければなりません。そのためにこうして参上した次第で…」

「そんな訳のわからん話は断る」松五郎は即座に云った。「漁師たちが路頭に迷う」

「もちろん、その補償は致しますとも」竜宮寺大助は軽やかに云う。「その総合庭園の従業員として雇うことも考えています。何せ大勢の従業員が必要になりますのでね」

「ですからね、杉戸さん」キンカン頭が口をはさむ。「漁師たちへの説得を、ぜひ杉戸さんにお願い出来ないかと思いましてね」

「断る」松五郎はにべもない。「ここ浦益はずっと漁師たちが貝を採り、海苔を作って暮らして来たんだ。そして俺はそのおこぼれを頂戴して、どうにかここまでやって来た。その俺が漁師たちにそんなことを云えるはずもねえ」

「その話なんだが」ここで城東会の工藤が口をはさんだ。「どうだ、杉戸の。おまえさんがやってる貝殻の集積と卸だが、あれをもっと企業化してやらねえか」

「何のことだ」

 松五郎はギロリと工藤を睨み据える。

 工藤はブルドッグのような顔付きに薄くなったゴマ塩の髪をのっけている。

 さらに工藤はどういう訳か黒の紋付袴を着ており、ただでさえこいつがいると気分の悪い松五郎は、そのためなおさら不快であった。

 松五郎は普通の羽織姿であった。

「つまりだ」工藤はいささかも動じた様子はなく、薄ら笑いさえ浮かべている。「貝殻をただ卸してるんじゃつまらなかろう。どうだ、貝殻を粉にして漆喰にする工場を作って、もっと儲けねえかって話だ。今は全国で石造りのビルヂングってえのを建ててるから、儲かるぜ。何ならその工場を俺ん所の会社で建ててやってもいい」

「馬鹿な話だ」松五郎は吐き捨てるように云う。「干潟を潰したら貝は採れねえ。そうしたら貝殻だって採れなくなる」

「馬鹿なのはてめえだぜ、杉戸の」

 工藤に呆れ顔で云われて松五郎は「何だと」と杖を振り上げかけたのを「まあまあ」と他の三人が押しとどめる。

「別に貝殻は浦益ここで採れなくたっていいんですよ」竜宮寺大助が云った。「余所から貝殻を持って来て、杉戸さんとこの工場で粉にすればいいんです。我が国は四方が海ですからね。それこそ貝殻なんて無尽蔵ですよ」

「良い話だと思うがね」工藤が云う。「おめえの息子に話したら、大乗り気だったぜ」

「息子? 源太郎か」松五郎は忌々しげに舌打ちする。「あいつは勘当した。もう杉戸とは何の関係もねえ。…てめえ、あのバカをたらし込みやがったそうだな」

「ああ、昨日のことですか」竜宮寺大助がニコヤカに割って入る。「それについては謝りますよ。いや、私の方ではてっきり役場と警察の方に届けを出せば済むものだと思ってたものですからね。まさか、こちらに地元の親分さんがいらっしゃるとは…」

「竜宮寺さんとおっしゃいましたね」松五郎は竜宮寺大助のイヤミったらしい云い方は無視して問い返した。「確か越州に竜宮寺とかいう元はインチキ薬売りから始まって、今じゃ一大製薬会社にまでなったヤクザがいるって聞いたが。今でも相当アコギな商売をしているそうだが、まさか、そこと関わりのある方じゃ…」

 竜宮寺大助の表情から笑みが消えた。

「ええ」竜宮寺大助は指先で眼鏡を直す。「私はその跡取りですよ」

「悪いが、俺は帰るぜ」松五郎はくるりと踵を返した。「そんな連中が関東に乗り込んで来たら、帝都中のヤクザが蜂の巣をつついたような大騒ぎになるのは目に見えている。関わりになるのはゴメンだ」

 そう云い捨てて松五郎は杖を突きつつ出来るだけの全速力で部屋を出て、後ろを振り返ることなく廊下を行きかけた。

 背後で扉が開いて、足音が速足で追い掛けて来た。

「おい、松五郎。待ってくれ」

 警察署長の船村の声だった。しかし松五郎は歩みを止めず、振り返りもしない。

「幼なじみのワシとおまえじゃないか」船村はさらに云う。「まあちょっと落ち着け」

「こう云う時に幼なじみを持ち出すんじゃねえ」松五郎は振り返らずに云う。「そっちこそ落ち着いて考えろ。竜宮寺製薬と関わるなんぞ、一蓮托生で地獄へ堕ちるようなもんだぞ。あいつらの噂を知らんのか。大陸からアヘンやら、もっとわからねえ薬物を密輸しているし、逆に武器を密売しているって話もある。あんな得体の知れねえ、化け物みたいな奴らと関わるな」

「それがどうした」

 船村の声が急に冷静なものになったので、松五郎は驚き、思わず立ち止まって振り返った。

 船村のいかつい仁王のような顔が、まったくの無表情になっている。

「落ち着いて考えるのはおまえだ、松五郎」船村は声を低くして松五郎の耳元に囁く。「いいか。これはこの浦益がこの先もずっと貧乏な漁村であり続けるのか、それとも帝都のような、いや、それを超えるような繁栄を手に入れるかの瀬戸際なんだ。ワシは警察署長として、いや、一浦益住人として喜んで後者を取る。それが時代の流れだし、ワシの立場としては時代の流れに取り残されるような選択は許されん。村長も気持ちは同じだ。…頼む、松五郎、わかってくれ」

「おまえの云うことはわかる」松五郎は深い溜息をつく。「しかし、そのために城東会や、ましてや竜宮寺製薬と手を組むと云うのは…」

 すると、今度は船村が深い溜息をつくのだった。

「こういうことは云いたくないのだが…。おまえん所の雪華ちゃんのことだが」

「雪華?」不意にその名を出されて松五郎はギョッとした。「雪華がどうした」

「今まではワシとおまえの仲だから、どうにか誤魔化してきたが…。まあ、おまえも知っての通り、あの子には自分の父親を焼き殺した放火殺人容疑が掛かっている」船村は声をますます、グッと低めた。「その上、あの子はマモノだ」

 松五郎は黙ったまま、船村の口の動きを見ている。

「名誉臣民ならいざ知らず」船村は続ける。「その子弟でもないあの子は、通常なら然るべき施設に収容せねばならんし、額に刻印だってされにゃならん」

 然るべき施設、とは「名誉臣民」として認められた以外のマモノの子供…世間から逃れて山奥に隠れ住むマモノの子供、あるいはマモノの孤児などを収容し、「適正に」教育するための施設のことであり、その設置場所は国内に複数あるらしいが、国家機密とされていた。

 噂によれば人里離れた山奥や、絶海の孤島にそれはあると云う。

 そして、さらにはそのような建前で設置されているにもかかわらず、そこに収容されて生きてシャバに戻った子供はいないと云う噂もある…。

「雪華は…丹波が可愛がっている」

 松五郎は独り言のように呟いた。

「丹波は確かに名誉臣民だが、雪華ちゃんは丹波の子じゃあない」

 船村はそう云って首を横に振る。突然松五郎はハッとして云った。

「雪華のこと、誰かに喋ったんじゃねえだろうな」

「馬鹿云うな」船村はムッとした表情になる。「それはワシとおまえとの約束だ。誰にも云ってはおらん。ただし…」

 船村はジッと松五郎を見据えた。

「おまえの態度次第では、その約束を守れんかも知れん」

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