雑草の庭
染よだか
雑草の庭
叔父がいいというので刈ってしまったけれど、いくつか花が咲いていた。土の肌に晒された草花は、日照りのためにすっかりしなびている。死んだ雑草たちの庭。墓穴を掘っているような気分だ。
定年退職してから祖母は園芸に凝るようになった。祖母の家は長屋のため敷地も広く、縁側に臨むその庭はちょっとした庭園という感じだ。手入れもずいぶん熱心だったが、じつのところ、庭の植物はほとんどが雑草だった。丁寧に育てられた雑草。春はタンポポやシロツメクサが咲き、夏には名前のわからない青い花が咲く。
お見舞いに花を持っていくと、祖母は眩しそうにそれを眺めた。あら、きれいなガーベラね。ありがとう。庭のタンポポは綿毛になった? いつだって雑草の心配をしている。自分の体調も思わしくないのに。
祖母が亡くなったのは四か月前だ。葬式にはたくさんの花が並べられたけれど、名前がわかったのはユリくらいだった。それだってわたしの名前が百合子だから知っているってだけで、花の名前には詳しくない。アサガオとホウセンカは小学校で育てたことがあるので知っていた。あとはあんまり知らないけど、たいして困ったことがない。たぶんわたしが学校に行っていないからだ。中学のテストでは花の名前が出題されるだろうか。わからない。
「百合ちゃん、もういいから、こっちで休もう」
叔父が縁側に腰かけたのでわたしも近寄ると、冷えたグラスを手渡された。それを一気に飲んだせいか、叔父はふふっと笑ったように見えた。しかたない、庭仕事は喉が渇く。
「ずいぶんがんばったね」
半日かけてようやく三分の二程度、雑草を取り除くことができた。ひとりでやりますといったのはわたしなので、時間がかかって申し訳ない気がする。グラスの氷をカラカラ回しつつ、こっそり横目に盗み見ると、腕まくりされたシャツからは筋ばった腕がしなやかに伸びていた。まるでやさしい樹木のようだと思う。わたしの腕とも、祖母の腕とも違う。
「晩ごはんまでには終わります」
「明日やればいいよ。これからは勉強もしないと」
これからは。もらったドリルはちゃんとこなしているのに。なまけものだといいたいのだろう。このひとは、祖母がわたしの先生だったなんて思いもしない。
待っているようだったので返事をしたが、目は合わせなかった。叔父はわたしともお母さんとも別のいきものだけど、垂れた目元だけはお母さんに似ている。祖母に似たのだ。他の部分はそれぞれの父親に似たのだろう、きっと。
お母さんは花が嫌いだった。花粉症がひどいせいだと思う。そのせいで春と秋は泣いてばかりいた。夏と冬にはあまり帰らないので、わたしは祖母の家に寝泊まりした。祖母は料理がうまいけど、それはよそのひとの家でごはんを作っていたからだという。家政婦さんだったのだ。
「ちゃんと料理するようになったのは最近なのよ。あなたのお母さんには、あまりちゃんとしたごはんを作ってあげられなかった。だからすみれのこと、悪く思わないであげてね」
私がさみしそうにすると祖母は責任を感じるらしいと知ってからは、そういうことをいわないように気をつけるようになった。だから、どうしておじいちゃんがいないのとか、どうしてお父さんはいなくなったのとか、そういうことは訊かないことにしている。お母さんがたまに連れてくる男のひとの名前だって知らない。覚えたっていつか来なくなるし、きっとテストにも出ない。
一度だけ、どうして雑草を大事にするのか訊いてみたことがある。
「せっかく生まれてきてくれたのに、殺すのは嫌だったの。それに、ほっとくから乱れるのであって、ちゃんと育てれば案外きれいなのよ」
二人で水やりをしているときだった。春の祖母はいつもより早起きなので、わたしも午前五時には起こされる。いわく、春はあけぼの、らしい。意味はよく知らない。
「雑草は捨てるんじゃないの? ほかの花が育たなくなるって」
「そうだね。おばあちゃんも昔、ほっといて庭をぐちゃぐちゃに荒らしてしまったことがあるよ。雑草だって、伸びすぎた葉や茎は切らなきゃならないし、日照りが続けば水も必要になる」
「水やり? 雑草に?」
「雑草って呼び名を決めたのは人間だからね。それぞれちゃんとした名前があるんだよ。これはドクダミ。葉っぱは化膿止めにもなる」と、祖母は庭の隅の白い花を指さした。
「これは?」
「ナズナ」
「こっちは?」
「ハルジオン。摘んじゃだめよ、貧乏になるっていわれてるから」
「ふうん。あれは?」
「あれ?」
「紫の」
じつはずっと気になっていた。庭の奥のほうでひっそりと咲くその花は、紫の小さな花弁が重たげに揺れて、今にも折れてしまいそうだった。だからか知らないけど、とくべつ丁寧に手入れをしているように見えたのだ。きっと好きな花なのだろう。石でぐるりと囲って、守られている。
「あれは……あなたのお母さんの花だよ」
「お母さんの花? 百合子のはある?」
「ユリはないけど、どこかで苗をもらってもいいかもね」
でもこの庭にユリが咲くことはなかった。一度お花屋さんで買ったものを植えてみたけど、うまく根づかなかったのだ。そのすぐあとに祖母の腫瘍が見つかって、庭を手入れするひとはいなくなった。そのまま一年が経つ。
もうあの花が咲くことはないのだと思う。荒れ果てた庭にあるのは円く並べられた石たちだけで、なんだかお墓みたいだと思った。そうならいいのに。ここにお母さんがいるなら、きっとさみしくなどないのだから。
草抜きは次の日も続いた。案外深く根が張っていたせいで、庭の土はぼこぼこと黒い。引き抜こうとして体重をかけると、ときどき根っこがぷつんと切れて尻もちをつくことがある。そうなるとスコップでかりかり掘り起こさなくてはならないのでめんどうだった。でも土のにおいは嫌いじゃない。祖母のにおいに似ている。
庭にいるとき、祖母は先生だった。植物のことはなんでも知っているし、教え方だってすごくうまい。ヒシ植物とラシ植物の違いも教えてくれた。桃はハイシュがシボウに包まれているから、ヒシ植物。松はハダカで、ラシ植物。たしかに桃のほうが太って見える。
桃の実の部分は、シボウが発達したものなんだそうだ。実はジュフンしないとできないから、お家で育てた桃を食べるためにはジュフンをしないといけないらしい。つまり、オバナの花粉をメシベにつける。メシベはメバナのなかにあるそうだ。
庭の桃はジンコウジュフンをしていないからなかなか実らなかった。どうしてジンコウジュフンしないのか訊いたら、「そういうのは自然に任せることにしたの」という。めんどくさいだけなんじゃないかと思った。
「でも百合子、桃食べたいよ。おばあちゃんは桃嫌いなの?」
「好きだよ。でも桃ばっかり可愛がったら、他の草花が可哀想でしょ?」
祖母は慈しむような目で水をやるので、わたしはときどきワガママをいいたくなった。今ならバカだったとわかる。祖母はいつでも、平等に愛してくれていたのに。
「可哀想じゃないよ。他のはぜんぶ雑草じゃん。おばあちゃんも、桃が好きだから植えたんでしょ?」
そのとき、水やりをしていた祖母の手が止まって、百合ちゃん、と静かに声がした。
「……そういうことは、もう二度といわないで」
冷たい声だった。どうしよう、怒らせてしまった。背筋を冷たいものが駆けて、思考がぐるぐると止まらなかった。なにが悪かったのだろう。きっとわたしがバカだから。そのせいでお母さんはいなくなってしまった。きっとまたわたしは――そう考えるとおそろしくて悲しくて涙が止まらなくて、気づけばごめんなさいごめんなさいと泣いていた。
「百合ちゃん!」
呼吸がひゅっとなって、あとから肩を掴まれたのだとわかった。顔をあげると、怒っていると思っていた祖母が悲しそうにわたしを見ていた。やさしく抱きしめられると余計に涙が出てきた。祖母はしばらく背を撫でてくれて、次の日には桃の缶詰を買ってきてくれた。泣きたかったのは、きっと祖母のほうだったのに。
叔父の名前はトウヤという。トウヤのトウは桃と書くのだ。
お昼はカレーライスだった。カップ麺以外のお昼ごはんを食べると、休日なんだなという感じがする。わたしは毎日が休日みたいなものだけど、叔父はちゃんと仕事をしているので、きっと疲れているはずだ。それなのに、休みの日はごはんを作ってくれる。いいひとなのだろう。
あとで花の種を買いに行こうか、と叔父がいった。
「百合ちゃんの好きな花を育てていいよ。野菜でもいいし、ちょっと難しいかもしれないけど、果物だってできないわけじゃない。ニンジンも、自分で育てればきっと愛着が湧いてくる」
ニンジンを避けて食べているのがバレていたらしい。食べなさいとはいわれなかった。スプーンの側面でニンジンを細かく細かく刻みながら、好きな花について考えてみる。わたしはあまり花を知らないので、雑草でいいよといった。すると、叔父はにわかに眉をひそめた。
「ばあさんの庭を、もっかい作り直すってこと?」
「そうだけど違う。放っておいて、生えてきたものを育てるの」
納得していないのだろう。スプーンをカチャカチャ鳴らしながら、カレーをすくったりこぼしたりしている。このひとにはきっとわからないのだと思った。わたしたちは違ういきものだから。
「でも、せっかくきれいにしたんだし――」
「きれいになるよ。ちゃんと手入れする」
「雑草を? 百合ちゃん、ばあさんは……」
「おばあちゃんは正気だった!」
スプーンが思いのほか大きな音を立てて皿にぶつかった。続ける言葉に困ったようなわずかな沈黙が、どうしてか許せなかった。「死んでるんだよ」、それとも「ボケてたんだよ」? わからない。わからないけど、いずれにせよ余計なお世話だ。
「おばあちゃんは生まれてきた命を殺さなかった。だからお母さんもわたしを産んでくれたんだ」
返事はなかった。きっとわからない、それでいいと思った。だってこんなのはテストに出ないし、叔父は雑草じゃない、女でもない。このひとは、望まれて生まれてきたのだ。
「……テッポウユリって雑草なんだよ」
お母さんは自分が雑草だと気づいていて、だから帰ってこないのだろうか。生まれたことを悔やんだだろうか。今ごろ愛されたって遅くて、だってもう雑草として生まれちゃって、わたしたちはもう、ほかのなにものにもなれないのかもしれない。わからない。
わかるのは、お母さんとわたしは同じだってこと。命の責任は種にはなく、いつだって土のほうにあるのだということ。産んでしまったら、生まれてしまったら、生きなくてはならないのだということ。
でもわたしは、まだひとりでは生きられる年齢ではないということ。
「……なんちゃって。ごちそうさまでした」
小さく小さくなったニンジンもろとも、一気に流し込んで食べた。わたしは早く大きくならなきゃいけないし、いつまでも子どものままじゃだめだ。いわれなくたって勉強はします。テッポウユリは武器じゃないから。
種は買いに行かなかった。でもきっと雑草は生えてくるし、わたしだって、しばらくは死なないのだろう。いつかこの庭にユリが根づくといいと思った。そしたらまた、スミレも咲いてくれるような気がしていた。
雑草の庭 染よだか @mizu432
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