幸之心に、忍びとして抱えられる前───正確に言うと、拾われたのちに忍びとしての素養を見いだされ忍びとして使われるようになったのだが───、伊織は伊之助という山賊のような男と一緒に暮らしていた。


拾われたのは伊織が齢七つの頃、おそらく伊之助は三十を少し過ぎたくらいだっただろう。伊之助に声をかけられ、伊織は顔を上げる。この頃暮らしていたのは山奥のぼろ小屋であった。

「おい、下りるぞ」

「はい」

だいたい十日に一回、山小屋から町へ下りて物資を調達する。冬は町に宿を取ってそこで過ごすこともあった。それほど雪が深く、山に何もなくなるからである。

 並んで歩き始めると、伊之助が問うてきた。

「おい。お前、なんか、食いたいもんはあるか?」

「なんでもいいです、お師匠の食べたいものであれば」

 伊織は屈託なくそう答えた。それが本心なのである。

 伊織にとって、伊之助は実の親よりも慕う存在であった。実のところいまだに考えるたび苦しいが、親に捨てられたとき拾ってくれたのは伊之助だったからである。伊織という名前も、伊之助の文字から取ってつけられた。生みの親からつけられた名前は、その記憶とともに捨てた。

「そんじゃまあ、適当に買ってくるか」

「はい!」

 伊之助はなぜか山小屋にたくさんの金を蓄えており、それを少しずつ使っているようだった。最初この山小屋に来たときはあまりにたくさんの金があって驚いたが、伊之助はなぜここにそんな金があるのか、詳しい話をしようとはしなかった。

 街へ降りるときは、毎回二人とも身なりを変えた。山で生活しているときの格好は、町にはやや不相応なのである。


 町へ下りると、師走のせわしないざわめきで町は賑わっていた。

「やけに人が多いな。年の瀬だからか? おい伊織、はぐれたら置いてくぞ」

「わかってます」

 口ではそう言いながらも、伊之助は小さい伊織をかばうようにやや前を歩いてくれる。そういう伊之助が好きだった。人の波をくぐりながら商店に並ぶ品物を眺める。中にはこの時代の子どもたちが正月にこぞって遊んだ凧や羽つきもあった。

 伊織は、親元で暮らした七つまでで、男子は凧揚げをして正月を過ごすことを知っている。

(おれには、必要ない……)

 色とりどりの凧を見つめながら、そう自分に言い聞かせる。すると、伊之助の太い指が伊織の肩をとんと叩いた。

「欲しいなら、買ってやる。好きなやつ選べ」

「え……」

 驚いた伊織が伊之助の方を見ると、伊之助はあごをしゃくって見せた。彼なりの優しさだったのだろう。この歳で独り身の男である、女子供にはそれほど慣れていそうにもない。

 昔はかなり腕のいい忍びで、暗殺の任も受けていたらしい。多くの敵を作ったためにこの山小屋にこもったと聞いている。そんな男の優しさに、幼い伊織でも気づかないはずがない。

「……これが、欲しいです」

 かんたんな絵柄のものを指差した。一番値段が安いのをねだるのは変な気を回すなと言われそうだったから、二番目に安いものにした。

「わかった」

 伊之助に買ってもらった凧を手渡され、人生で初めて凧を持つ。伊織は自分で思っていたよりも、凧が欲しかったらしい。

「お師匠……」

「なんだ」

「ありがとうございます。大事にします」

「山ん中じゃ、すぐ木に引っかかっちまうかもしれねえけどな」

「いいんです、揚げませんから」

「そんじゃ意味ねえだろ」

 伊之助の広角が少しだけ上がったのを、伊織は見落とさなかった。実の子供ではないが、それなりに可愛がってもらっている、そのことを伊織はしっかり分かっている。

伊之助の太い手に頭を撫でられながら、伊織は家族の幸せを感じていた。


 しかし───そういう毎日が続いたのも、伊織が十三の時までであった。

「おい、どうやら山賊が捕まったらしいぞ。捕まってすぐ磔にされたそうだ」

「これまで何人も殺した、忍びの術を持ったお尋ね者だったらしい」

(忍びの術を持った男……?)

 伊之助が、今日はなぜか一人で使いに行ってこいと言った。伊織のもっていた短刀が昨日折れたことをやけに気にして、自分の懐刀をもたせてくれた。それに、思い返せば最近、どこか心ここにあらずという感じがしていた。生き急いでいるようでもあった。

 そういう思いが頭をめぐりながら、伊織はお尋ね者が磔にされたという場所へ急いだ。町の中心部まで走ってくると、伊織は自分の息が止まるのが分かった。

「……お師匠……?」

 十三の子供の目には、敬愛する拾い主の処刑される姿はどう映っただろう。

普段は山の中で生きていくために動物を殺めている伊織でさえ、そのむごすぎる仕打ちに、目を覆いたくなった。

(……誰が、こんなことを……)

 もう、伊之助の息はない。生きていたときの表情が思い出せないほどだった。見るからに、試し斬りをされたあとである。

伊織は伊之助を見ることができずに、山小屋へ向かって走り出した───。


 山小屋へ行く途中、馬の蹄が土を叩くのと、武具が揺れる音、そして人々の話し声が聞こえてきた。伊織は身についた習性から、とっさに木陰へと身を隠す。人の群れはどうやら大名が雁を狩りに行った帰りらしい。浮かれた様子の一行に、自分の胸中との乖離を覚え無性に悔しくなった。

 しかし、すぐさま向かいから二人ばかりの男が馬に乗ってやってきた。大名への早馬と見える。

「幸之心様」

 二人の男は大名らしき男の前に跪くと、頭を垂れて声を張り上げた。

「只今、城下町で人相書にあった男を捕らえました。自白したものの、ひどく抵抗したそうで、拿捕してすぐに刑を執行したそうです。町で今、さらし首になっているとのこと」

「……仕方がないね。分かった。詳しくはまた帰ってから聞こう。下がりなさい」


 幸之心と呼ばれた大名はその報せを聞いて、何を思ったのだろう。さも同情したかのような口ぶりに、腸が煮えくり返るというのはこういうことなのだと思った。憎悪である。伊織が生きてきた中、幼少期も不幸であったと思うが、このときの感情が人生の中で最も激しい感情であっただろう。

 伊織は溢れ出した涙をこらえようと歯を噛み締めた。しかし嗚咽が漏れる。ここで声を上げてはいけない。しかし、知らない感情が歯の隙間から溢れてくる。


「誰か、いるのかい」


 その呼びかけで、心臓が縮み上がった。ここにいることが知られたら、どうなるかわからない。

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慟哭 寿美琴(ことぶき みこと) @ris_1043

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