慟哭

寿美琴(ことぶき みこと)

 晩秋の曇天は、どこか押しつぶされそうな気配がある。肌を刺すような冷たい空気を頬に受けると、侘しさが増すようだった。

 隠密の任を終え、忍びである伊織は大名の屋敷へと帰ってきていた。


 広間に入ると、窓の外を眺めていた男が振り返る。伊織は男の前に頭を垂れ、膝をついた。

「ただいま戻りました」

「おかえり。ご苦労だったね」

 伊織の仕える大名、糸川幸之心は柔和な笑みで伊織を迎えてくれる。広間は外より暖かく、火鉢に入っている炭の焼ける匂いがした。

「報告いたします。件の商家は、やはり不正に金を徴収しているようでした。おそらく、ここしばらくは、同様のことを繰り返しているかと」

「……やはりか」

 伊織の言葉を聞いた幸之心の表情に、暗い影が落ちた。しかし、伊織は目をそらすことなく言葉を続ける。

「はい。商家の主人は、最近少しずつ羽振りがよくなっていたこともあり、周囲の町人もなにかおかしいと気づいていたようでした。こうなることは、時間の問題だったようです」

「……そうか。よく調べてくれたね、ありがとう」

 幸之心は深くうなずいた。そして引きつった顔のまま、口角だけを上げる。

「まあ、仕方ないね。うまく取り計らうよう、伝えておこう」

「はい」

 商家には、これから奉行所のものを行かせ、それなりの罰が下るだろう。当時、この程度の詐欺であれば重敲きの上、入墨である。もう少し事が進んでからであれば、死罪になるところであった。その前に拿捕されただけましというもの。伊織はそう思えど、幸之心はこうなった事自体を責めているようであった。

「私が、もう少し町の様子を気にかけてやっていればね。こうなることもなかったのかもしれない」

 心を痛めた様子のこの大名は、貧乏である。貧乏な上、町人に肩入れする。いや、かえってそのために貧乏であると言ってもいい。年貢の取り立てを厳しくできないのである。

 また、自分の領地に住んでいる人間ならば、悪人相手であっても心を痛めるのであった。伊織も最初は冗談だと思った。しかし、この大名に拾われてはや五年近く、そろそろこの人柄がわかってきた頃である。

 伊織はそんなことはない、と言おうとしてやめた。何を言っても気に病むのである。

「薫、あとで奉行所の方に文を出してくれるかな」

「はい」

 幸之心の脇に、薫という家臣が控えている。彼は幸之心の実子ではなく、幼い頃に戦で親を亡くして、幸之心に拾われたらしい。歳はちょうど、伊織と同じく十八である。伊織とは違い、薫は幸之心を心から慕っているようであった。

「伊織、任務ご苦労だったね。それで、……このあと少しいいかい? 薫も、少し席を外してくれるかな」

「はい」

「では俺は、文を出してきます」

 切れ長の瞳で伊織を刺すように見ながら、薫は広間を出ていった。

 幼い頃から学問と武術をすすんで学び、実力もかなりあるらしい。彼は幸之心の用心棒の役割も兼ねていた。無論、幸之心は誰かから恨みを買うような性分ではないから、役に立つことはそれほどないだろう。


「外は、寒かったろう。そろそろ、秋だね」

 幸之心と伊織、二人きりになると、幸之心は外廊下の先に見える山々を見渡した。すでに紅葉は進んでおり、赤や黄色に染まっている。

 伊織はさして景観などに興味はない。色づいていると言われれば確かにそうだ、と思うだけだ。

「……」

「山々が染まり始めると、なんだか少ししんみりするね。これから、厳しい冬だから」

「……ええ」

 伊織は、こういう他愛のない会話が苦手である。気の利く性格でもなければ、多弁な方でもない。

 幸之心も、そういう伊織の性格は分かっていながら、なにか話さなければ気がすまない性分なのだ。

「最近は、どうだい。何か、困ったことはないかな」

 幸之心の本題はこれであった。伊織のことも、実子のように気にかけているのである。

「……特に、ありません」

「そうかい。それならいいが……。ああ、そうだ。昼間、家臣にまんじゅうを買ってきてもらったんだ。食べるといい」

 幸之心は上質な紙に包んだまんじゅうを伊織の方へ差し出した。

(……ここは、もらっておくのが得策か)

「頂戴します」

 両手で受け取ると、幸之心は安堵したように微笑んだ。

「今日は疲れたろう。下がって、休みなさい。何かあったら、私か薫に言っておいで」

「はい。では」

 頭を下げて、広間を出る。伊織は広間を出ると、周囲に誰もいないことを確認して屋敷の外へと向かった。

 陽が落ちて、外は暗がりになった。風がやや強い。そのせいで、体感気温もいくらか下がった。

 冷たい風を頬に受けながら、伊織は屋敷から少し離れた山の中腹にある大きな木のもとへやってきた。周囲で一番長寿のこの木は、幹も伊織の両手では囲い尽くせない。伊織はその木の一番低い枝に手をかけると、その手を軸に勢いをつけてもう一段高くて太い枝に飛び乗った。そして幹に彫ってあった傷をなぞる。

(……この四日間の印)

 伊織は懐から小太刀を取り出すと、幹に四本の傷を書き加えた。隠密の任でここを離れていた四日間の記録である。木の幹には、これまで毎日彫った軌跡が残っている。幸之心に仕えるようになってから毎日ここに刻んだ。いや、正確に言えばとある人物の死んだ日から、である。

(師匠……)

 懐から出した小太刀はよく見るとかなり古い。しかし手入れがなされているためか、刀身はよく磨かれて輝きがある。月の光を跳ね返して光る刀身を見つめながら、伊織は空を見上げ、いまとなっては遠い日のことを思い出していた――。

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